日曜定期更新(04/07/2019)「結婚主義国家 恋人死亡 初稿」※ネタバレ注意

日曜日に書く事があっても無くても「とりあえず定期更新」するコーナー。 企画担当のどうでもいい事だったり、時として新作タイトルの事についてだったり、更新して、生存報告する事が第一目的です。

ケイ茶です。
Rが結婚主義国家の開発フォルダを探し回った結果、 「単独結婚」「恋人死亡」「儀式失敗」「変人縁談」 のストーリーの初稿が発掘されたため、公開します。
今回の「恋人死亡」はガッツリあります!!(完結してます)
なので、時間がある時に読むことをお勧めしますよ~。

※「結婚主義国家」のネタバレが含まれる場合があります。
そのため、本編をすべてプレイしたうえでの閲覧を推奨いたします。

「恋人死亡」の初稿です。
儀式失敗の方も初稿段階だったため、直樹の喋り方が違ったり、他のキャラもたくさん出てきたりと大分印象が違うかと思います。
これはこれで気に入っている部分はありましたが、本作の全体の流れを考えて現在の形に変更されました。
3集部分は特に修正を重ねた物語でした。 R

それは、かすれた声だった。

【彩芽】
「私……死にたく、ない、よ」

【彩芽】
「結婚できる、はず……だったのに」

【彩芽】
「健一郎と結婚して……一緒に、生きていく、はずなのに」

【彩芽】
「死んじゃったら……結婚、できない……。死んじゃう……なんて、そんなの」

【彩芽】
「いやぁっ!」

かすれた声のはずなのに――その、最期の言葉はハッキリと、俺の耳の奥にこびりついた。

;▲自室

【健一郎】
「っはぁ……」

布団を蹴り飛ばすようにして飛び起きる。

もう、何度この夢を見ただろうか。

あれから1年以上、毎日毎日同じ夢を見続けているというのに、起きた時のこの感覚にはなれる事がない。

脈打つ心臓。全身にかいた汗。

それらは不快感を俺に与えて、あの日を忘れるなと繰り返す。

きっと、この悪夢は俺が殺されるまで続くのだろう。

しかし、それがきっと俺の罪だ。

あの時彼女が死ぬのをただ見ている事しかできなかった、なさけない人間の末路がこれだ。

俺は夢の中で断罪され続ける。

だから、目をつぶろう。もう一度眠ろう。そうして、再び悪夢を見る。

それが今、俺に架せられた罪のはずだ。

そう、まぶたを下げた時、

【???】
「ちわーっす。宅配便でーす!」

【???】
「朝をお届けにまいりましたーっ!」

【健一郎】
「……っ」

部屋の外から大声が聞こえた。

同時に、ドンドンと扉が叩かれる音がする。

扉についたガラス窓へ目を向ければ、ぼんやりと人影が見えた。

この髪型……やはり、茜か。

思いつつ、俺は布団をかぶる。

【茜】
「朝だよー。7時だよー。おいしいご飯が待ってるよ」

【茜】
「おーい。おーい。健くん。健一郎くん」

……無視だ、無視。

騒ぎ続ける声を意識の外においやって、俺はさらに布団の中にこもる。

こうして休日のたびに茜が訪ねてくるのも、あの日から決まった流れだ。

今更ひるむ事はない。

どうせ、この後の流れも決まっている。

散々大声を出して満足したあいつは、俺のおふくろにこの部屋の鍵を借りて、勝手に入ってくる。

そうして、ずかずかと部屋の中に入り込んだかと思うと、

【茜】
「やぁ、健くん。おはよう!」

ほら、やっぱり。

俺の布団を無理やりはぎとって、いつもみたいな笑顔を――うさんくさいその顔を見せるんだ。

【茜】
「おや? なんだか、ご機嫌ナナメみたいだね」

【健一郎】
「帰れ。消えろ。どっかいけ。話しかけるな。うるさい。邪魔だ。機嫌なんてお前の顔を見た瞬間に最下層に落ちて戻ってこないに決まってんだろ」

【茜】
「うわーぉ。朝からバイオレンスだね」

【茜】
「いやー。寝起きでそれだけ口がまわるなら、たいしたもんだよ。感心、感心」

能天気な顔を向けてくる茜を、にらみ上げる。

しかし彼女はそれを無視して、白い紙とボールペンをつき出してきた。

【茜】
「はい、これ」

【茜】
「この紙の、ここのあたりにサインおねがいしまーす」

【健一郎】
「……なんだそれは」

このあたりも何も、茜が持っている紙はただの白紙だった。

意味がわからない。相手をしたくもない。

面倒で布団をかぶりなおそうとすると、途端に「ちょっとちょっと」と再びうるさい声が降ってくる。

【茜】
「さっき言ったでしょ。朝を届けにきたんだから、受け取ってくんなきゃね」

【健一郎】
「いらん」

【茜】
「いやいや、もうお届けしちゃったから」

【茜】
「受け取りましたって事で、ここにサインがほしいんだけど」

【健一郎】
「出て行け」

【茜】
「だめだめ。サインをもらってからじゃなきゃ、出て行かないよ」

【茜】
「健くんのお母さんに了承もらって、朝も昼も夜もずーっとここに居座るからね」

【茜】
「それが嫌なら、ここにサインしてよ」

茜は真っ白な紙を何度も指差す。

口をへの字に曲げたその表情は、これまでにも何度か見た事がある。

こうなった時の茜は、頑固だ。

正直、わけがわからないし面倒だが……仕方ない。

この程度のお遊びで追い出せるなら、書くか。

俺はボールペンと紙を受け取る。

そうしてペンを走らせていると、茜が声のトーンを落として話しかけてきた。

【茜】
「……健くんにとって、今はやっぱり、夜かな?」

【茜】
「まだ……世界は、暗いままかな?」

【健一郎】
「回りくどい言い方をするな。言いたいことがあるならハッキリ言え」

俺が言うと、彼女は少し言いにくそうにしながら口を開く。

【茜】
「……彩芽が死んでから、もう、1年以上過ぎたんだよ」

【健一郎】
「違う。もう、じゃない。まだ、だ」

俺は訂正する。しかし、茜は首を振った。

【茜】
「……もう、それだけの時間が過ぎたんだよ」

【茜】
「だから、そろそろ前向きに動き出さなきゃいけない時だと思うよ」

【健一郎】
「……何が言いたいのかわからない。俺は、動いているじゃないか」

【健一郎】
「平日はきちんと学校に行って、勉強をしている。飯も食っているし、部屋の掃除もする」

【健一郎】
「それとも、お前にはそれが見えないのか? 目が腐っているのか? 脳が壊れているのか?」

【茜】
「そうやって、ごまかさないでよ。私が言ってるのはそういう事じゃない」

【茜】
「私は君に『いつ、結婚相手を探すの?』って言ってるんだよ」

そう言って、茜は視線を部屋の隅にうつした。

そこには、積み上がったファイルがある。

【茜】
「……ねぇ。あのファイル、埃かぶってるんだけど」

【健一郎】
「だろうな」

【茜】
「私、何度も『見て』って言ったよね?」

【健一郎】
「俺は見ないと言ったはずだ」

積み上がったそのファイルは、見合い写真が収められている、らしい。

ただ、開いた事さえないから、どんなものかはわからない。興味もない。

【健一郎】
「どこかのおせっかい女が置いていくから、邪魔で仕方がなかった」

【茜】
「邪魔、って……」

【茜】
「ね。わかってる?」

【茜】
「ちょっと前に、健くんも私と同じように18歳の誕生日を迎えた」

【茜】
「だから、健くんは今年結婚しなきゃいけない。そうじゃないと、君は死んじゃうんだよ」

【健一郎】
「そうだな」

カレンダーに視線をうつす。

それは12月を示しているから、結婚式まではあと4ヶ月。

まだそんなに待たなければならないのか、と。改めて実感して、ため息を吐く。

【健一郎】
「たしかに死ぬさ。殺されるさ。でも、それがどうしたっていうんだ」

国の制度によって処刑される事。

それこそが――俺の望みだ。

【健一郎】
「俺がどうなろうと、お前には関係ないだろ。……赤の他人の、お前には」

【茜】
「……そりゃ、今は他人だけど」

【茜】
「あのまま……順調にいっていたら、私は健くんのお義姉さんになっていたんだからさ」

【茜】
「ちょっとぐらい、気にしたって良いじゃん」

【健一郎】
「そんなのは関係ない」

【健一郎】
「実際そうならなかったんだから、他人は他人だ」

【健一郎】
「お前なんかにとやかく言われる筋合いはない」

【茜】
「じゃあ、どうしても結婚相手を探さないんだね……?」

【健一郎】
「俺は死を選ぶ」

【茜】
「そっか……」

茜は視線を落とす。

それから軽く息を吐いたかと思うと、

【茜】
「はいっ、残念でした!」

そんな明るい声を出しながら、俺の手の中にあった紙を奪い取った。

【茜】
「あのさ。健くんのその望み、かなわないから」

【健一郎】
「……は?」

【茜】
「これ見てよ」

再び、茜は手に持った紙を突き出してきた。

それは先ほどと変わらない、白紙の紙で――いや、違う。

よく見ると、後ろに何かが透けて見える。

怪訝な目をした俺に向けて、茜は紙を揺らす。

【茜】
「これさぁ。軽くのりづけしてあったんだよね」

【茜】
「で、間にはカーボン紙をはさんでおいたから、これを外すと……じゃーんっ!」

【茜】
「下の紙にもしっかりと、健くんのサインが書かれてるってわけ!」

【健一郎】
「なんだ、これ。……宣誓書?」

【茜】
「そ。でも、別にそんなしっかりした堅苦しいものじゃなくってね。健くんの家族に見せるためのものだから」

その紙に書かれていたのは、宣誓という文字。

そうして、その下に並ぶ文章は……。

【健一郎】
「『俺は、茜さんと結婚を前提とした同棲をはじめます』……?」

【健一郎】
「なっ、なんだよこれ!」

【茜】
「だから、宣誓書だって」

【茜】
「健くんの家族にはもう話をつけてあるから。あとは君の意思次第でどうぞご自由に、って状態だったんだよね」

【健一郎】
「な……っ」

【茜】
「健くんが結婚相手を探さないっていうなら、しかたないよね」

【茜】
「探さない人には、勝手に押し付けちゃうしかないね。うんうん」

【茜】
「……って事で、君は私と結婚するんだよ!」

【健一郎】
「なんだよそれ! 勝手に決められてたまるか!」

【健一郎】
「それにそもそも、お前は結婚してるじゃないか!」

直接茜の夫を見た事はないが、たしかに、茜は誰かと結婚していたはずだ。

そう思って言うと、彼女は苦笑した。

【茜】
「あぁ、あれね。終わったよ」

【茜】
「今嵌めているこの結婚指輪も、カモフラージュ」

【茜】
「こうしていつもと変わらない方が君は騙されてくれるかなって思ったから、つけていただけ。ただの飾り」

【健一郎】
「飾り……?」

【茜】
「今はもう、この指輪は意味なくなっちゃったんだよね」

そう言って、茜は指輪を嵌めた薬指をゆらゆらと揺らす。

【健一郎】
「今はもう……って事は、まさか」

茜は離婚した、という事になる。

しかし、この国では離婚という制度が廃止になっている。

婚姻が解消されるのは――配偶者が死んだとされた時だけだ。

【茜】
「うん。そうなんだよ」

【茜】
「健くんは恋人を失った」

【茜】
「私は、妹を失った。そして、夫も失った」

【茜】
「ね。亡くしてしまった者同士、仲良くしようよ」

彼女はそう言いながら指輪を引き抜くと、テーブルの上においた。

【茜】
「残された私たちで――傷の舐め合いでも、しようよ」

;▲タイトル

【健一郎】
「彩芽っ! 彩芽っ! しっかりしろ、彩芽……っ!」

浅い呼吸を繰り返すだけの彩芽に、俺は何度も声をかける。

彼女の胸の傷口を手でおさえた。しかし血は止まらず、広がるばかりだ。

ただただ、救急車が来るのを待つことしかできず、悔しくてたまらなかった。

だから、周りの事になんて目が向かず――気付いた時には遅かった。

【男】
「ガ、アァ……アッ」

彩芽を刺したその男は自らの喉にも包丁を突き立てて、死んでいた。

;▲
【健一郎】
「っ、ハ……」

相変わらず、嫌な目覚めだった。

しかし、いつも通りとはいかず、何か違和感がある。

何がおかしいのだろうと周囲を見回して――。

【茜】
「や、おはよう」

【健一郎】
「うわっ」

すぐ間近にあった顔に驚き、頭を後ろに下げる。

【健一郎】
「ぐっ」

すると、壁に後頭部をぶつけてしまった。痛い。

【茜】
「わ。今日も朝から元気だね。感心、感心」

【健一郎】
「お前……また、勝手に人の家に上がり込んだのか!?」

【茜】
「はい、ハッズレー」

【茜】
「ここは私の家だよ。だから、私がいるのは当然って事」

【健一郎】
「は? ……お前の家?」

【茜】
「あ。間違えた。私と健くんの家だね」

【茜】
「まぁ、しがないアパートの一室なんだけどさ。2LDKだし、それなりに快適に過ごせると思うよ」

【茜】
「ちなみにこの1部屋が健くんの私室ね。私の部屋は廊下をはさんで反対側にあるから」

【健一郎】
「……ちょっと待て。俺は昨日、たしかに……」

【茜】
「自宅で寝たはずだ、って?」

【健一郎】
「ああ……」

昨日。結婚だのなんだのと馬鹿な事を言ってきたこいつを、俺は追い出したはずだ。

そして、そのあとは部屋に鍵をかけたうえで本を積み上げて簡易的なバリケードをつくり、完全に引きこもった。

それなのに……。

【茜】
「うんうん。ドア開けたら本がそびえ立ってたのはびっくりしたし、面倒だったよ」

【茜】
「でも、宣誓書はもらってたからね」

【茜】
「許可はもらいましたーって事で、健くんのご両親と一緒に、君が寝ているところを運び出したってわけ」

【茜】
「いやぁ。まさか、全然起きないなんてね。びっくりびっくり」

【健一郎】
「……勝手な事を」

【茜】
「あ。そうそう。まだ、再婚について説明してなかったね」

【茜】
「あのね。これは、世間ではあまり知られていない特例なんだよ」

【茜】
「この国では、女性が16歳。男性が18歳で結婚できるようになる」

【茜】
「そして、その年齢なら結婚式に参加する事ができる」

【茜】
「だから私みたいに18歳以前に結婚して、18歳――つまり今年なんだけど。そこまでに独身になった場合だけ、再び結婚のチャンスが与えられるんだよ」

【健一郎】
「それが?」

【茜】
「びっくりでしょ!」

【茜】
「こういう事はそうそうないから、過去にもあまり事例がないんだよ」

【茜】
「私もね、知り合いに聞くまではこうして再婚ができるって確信をもてなくて、」

【健一郎】
「俺は知ってた」

【茜】
「えっ、なんで!?」

【健一郎】
「なんだっていいだろ」

驚く茜を無視して、布団から抜け出す。

【茜】
「……どこ行くの? トイレ?」

【健一郎】
「家に帰る」

【茜】
「あのね。何回も言わせないでよ」

【茜】
「……こーこ! ここが、君の家なんだって!」

【健一郎】
「俺の家は、生まれ育ったあの場所だけだ」

【茜】
「でも健くんのご両親、『家に戻ってきても追い返す』って言ってたよ?」

【健一郎】
「なっ……!?」

【茜】
「2人とも、この同棲には大賛成してくれたからね。私の味方ってわけ」

【健一郎】
「何を考えているんだ、あの親は……」

夜中の間に息子を勝手に運び出す? そうして、亡くなった婚約者の姉の家で同棲させるだって?

……わけがわからない。

いや。わけがわからないのは、こっちもか。

【健一郎】
「あの2人もそうだが、お前もなんなんだ」

【健一郎】
「なぜ、俺と結婚なんて言い出した?」

【茜】
「え。そりゃ人助けだよ。無償奉仕。ボランティア」

【健一郎】
「……人助けで、結婚だと?」

【茜】
「うん。だって、この国だと結婚できない人は死んじゃうでしょ」

【茜】
「そんなの酷いよね。殺されちゃうなんて、かわいそうだよね」

【茜】
「だから、そういう人がいたら結婚するべきだと思ってね」

【健一郎】
「って、お前……。まさか、以前の結婚相手ともそうやって……」

【茜】
「あぁ、うん。人助けとして結婚したよ」

【茜】
「その人も、なかなかワケありでね。あと一歩で監獄行きだったんだよ」

【健一郎】
「その相手を助けるためだけに……結婚したっていうのか?」

【茜】
「うん。でも、結婚生活はある程度順調におくったよ」

【茜】
「結局、婚姻解消ってかたちにはなっちゃったけど……」

【茜】
「やっぱり、その時死んでしまいそうな人がいるなら助けたいよ」

【茜】
「しかもそれが、妹が好きだった人なら尚更だよ。みすみす処刑されるのを見逃せないって」

【健一郎】
「……お前は、俺が好きだったりするのか?」

【茜】
「え。ないない。別に、普通」

【茜】
「一緒にいて疲れないから、まぁいいかな、って」

【健一郎】
「っ、なにがいいって言うんだ!」

【茜】
「生きるために結婚する。それだけでいいでしょ」

【健一郎】
「……ありえない。……気持ち悪い」

生きるためだけに、適当な相手と結婚する。

この国の制度上、そういう人間がいるというのは想像がつく。

死にたくないなら、そういうのもアリだろうとは思う。

だが、この場合は少し違う。

すでに茜は1度結婚しているのだから、このまま結婚式をむかえても処刑はされないはずだ。

それなのに、俺を死なせないためだけに結婚するだって? 馬鹿馬鹿しい。

【健一郎】
「俺は処刑されたいんだ。親切の押し売りをしたいなら、他の男を探せ」

【健一郎】
「一方的な施しなんていらねーよ」

【茜】
「一方的、かぁ。じゃ、私にも理由があればいいかな」

【茜】
「んー。……寂しかったから、ってのはどう?」

【健一郎】
「は?」

【茜】
「だってさぁ。この機会を逃したら、私はこの先一生ひとりぼっちなんだよ」

【茜】
「そんなの寂しいじゃん。だから、しよ。結婚」

【健一郎】
「実家にでも帰ればいいだろ」

【茜】
「うーん。親からもそう提案されたけど、なんかねぇ」

【茜】
「せっかく独り立ちしたっていうのに、親の庇護下に戻りたくないっていうか」

【茜】
「誰かに守られたいんじゃなくて、誰かと寄り添いたいの」

【茜】
「健くんだって、その気持ちをわかってくれるでしょ?」

【健一郎】
「……さぁな」

誰かと――彩芽と寄り添って生きていきたい。

そう思った時はたしかにあった。

しかし、彼女がいなくなってしまった今では、その感覚を忘れてしまった。

;▲

【茜】
「いただきまーす」

結局。いくら問答をしても互いに譲らず、時間だけが過ぎてしまった。

そのため、とりあえず話を切り上げて朝食をとる事になった。

きのこと豆腐の味噌汁。焼き魚。かぼちゃの煮物。ほうれん草のおひたし。

茜が作ったというそれを、口に運ぶ。

【茜】
「味、どう?」

【健一郎】
「……普通だ」

いっそ、「まずい」と言えたら良かった。

それなら「こんなもの食えない」と言ってここを飛び出す事もできたし、それを理由に同棲解消だってできただろう。

だが、どれを食べても普通に、おいしかった。

【茜】
「そっかそっか。普通かぁ。よし!」

茜は満足げにうなずいて、もそもそと食べ始める。

【健一郎】
「……お前、これから毎食作るつもりか?」

【茜】
「ん。そーだよ」

【健一郎】
「面倒だろ」

【茜】
「いーや。全然」

【茜】
「前から作ってるから慣れてるし、量を調節しやすいから、1人分より2人分作るほうが楽だったりするんだよね」

【茜】
「それに何より、他人に食べてもらえるのは嬉しい」

【健一郎】
「ハッ。なんだそれ。いい人間を気取ってるつもりか?」

【健一郎】
「そんなの結局、他人に尽くす自分が大好き、って事だろ」

【茜】
「うっわ。嫌な言い方するねー」

【茜】
「まぁでも、当たってるかも。だいせいかーい」

ぴんぽーん。と、間延びした声を出して茜が笑う。

……調子が狂う。

平然と受け流すその態度に苛立って、俺は箸を乱暴に皿へとつける。

【健一郎】
「お前って、暇なのかよ。いきなり結婚するとか言い出して、いきなり部屋提供して、食事までつくるって?」

【健一郎】
「次はなんだ? 洗濯と掃除? それからマッサージでもしてくれるつもりか? 靴下でも履かせてくれるのか? なんでも甲斐甲斐しくやります、って?」

【茜】
「それも、だいせいかーい」

【茜】
「その通り。健くんが望むなら、どれもこれもやるよ」

【茜】
「誰かのために、何かをしている時ってさ。すごく、『生きてる!』って感じがするんだよね」

【茜】
「わかるでしょ?」

【健一郎】
「わからない」

【茜】
「えぇーっ。だって、他の人が『ありがとう』って言ってくれるんだよ? それで、笑顔を向けてくれるんだよ?」

こんな風に。と言って、茜はにっこり笑う。

【茜】
「ね? 笑顔っていいでしょ?」

【健一郎】
「全然よくない」

【健一郎】
「お前の笑顔を見てると、寒気が走る」

【茜】
「嬉しいと寒気を感じるなんて、健くんは変わった体質だねー」

【健一郎】
「違う」

【茜】
「寒いなら、暖房つける? それともお風呂? または、温めてあげよっか?」

ん。と茜は手を伸ばしてくる。

それを、俺は叩き落とした。

【健一郎】
「やめろ」

【茜】
「あれ。私の手、いつも暖かいって評判だったんだけどなー」

【茜】
「あ。食事中だと行儀悪いってことかな」

【健一郎】
「そうじゃない。不愉快だ」

【健一郎】
「気持ち悪い」

【健一郎】
「お前って、とことん気持ち悪いな」

【茜】
「そう?」

【健一郎】
「なんでそう、気安く手を伸ばす? なんでもしようとする? 笑顔を見てなんの得がある?」

【茜】
「幸せになれるよ」

【健一郎】
「……ほら、またそれだ」

【健一郎】
「自分に酔っているお前を見てると、こっちまで感染させられそうな気分になる」

【健一郎】
「……吐き気がする」

【茜】
「そっか、そっか」

【健一郎】
「誰かの笑顔のためならなんでもするとか。ほんと、わけわけんねぇ」

【健一郎】
「お前、俺が『彩芽のかわりをしろ』って言ったら、それもやるのかよ?」

思いっきり顔を歪めて言う俺に、茜は微笑んだ。

それから困ったように眉根を下げて、落ち着いた声で言う。

【茜】
「……そうだね。難しいけど、頑張るよ」

【健一郎】
「……っ」

最低だ、と思った。

こんな事を口走ってしまった俺も、平然と受け入れようとする茜も。最低で、最悪だ。

こみあげる嫌悪感をおさえるように口を手でおおって、立ち上がる。

【健一郎】
「ハッ。そんなお前が、彩芽のフリなんてできるわけねぇだろ!」

とっさに出たその言葉は、しかし我ながら的確だと思った。

そうだ。こんな茜に、彩芽のフリなんてできるはずもないし、求めるのが間違っている。

彩芽と茜は表面的に似ているところも多かったが、その本質はまるで違う姉妹だったのだから。

;▲回想

【彩芽】
「にゃーん」

【彩芽】
「にゃんにゃん」

自室でだらだらと過ごしている中、ふと背後からそんな声が聞こえた。

振り返ると、頭に猫耳の飾りをつけて「にゃあにゃあ」と言い続ける彩芽が目にはいる。

【健一郎】
「……なんだ急に」

【彩芽】
「猫耳つけて、猫の鳴き真似してんの。見てわかんない?」

【健一郎】
「それはわかるが……」

突然そんな事をはじめた意図が、まるでわからなかった。

何か仕掛けでもあるのだろうか、とじっと見つめていれば、彩芽が体をくねらせる。

【彩芽】
「どうよ? 可愛い?」

【健一郎】
「いや、別に」

【健一郎】
「ただ、狙ってんな、としか思わない。あざとさが透けて見える」

【彩芽】
「あ、やっぱ?」

【健一郎】
「多分、お前以外がやれば可愛い。お前がやると痛々しい」

【彩芽】
「うわー。ひどーい」

彩芽は棒読みで言って、猫耳を放り投げた。

【健一郎】
「で、なんで急に?」

【彩芽】
「んー。友達が遊びでくれたから、つけてみようかなって」

【健一郎】
「……そんなノリでつけるものなのか」

【彩芽】
「そりゃそうだよ。あーこれなんかいいな。丁度いいかな、ってノリなわけ」

【健一郎】
「丁度いい?」

【彩芽】
「そ。我が家の家訓は、『他人に媚を売って売って売りまくれ! いっそ押し売りしろ!』だからさ」

【彩芽】
「媚売ってみた」

【健一郎】
「ぶはっ。なんだその家訓」

【彩芽】
「あ。笑ったなー」

【彩芽】
「でもこれ、本当だから」

【彩芽】
「私の両親って、結婚式当日まで恋人がいなかった人――つまり、あまり物同士で結婚したみたいなんだよね」

【健一郎】
「お前な、実の親に対してあまり物って……」

【彩芽】
「事実なんだからいーじゃん」

【彩芽】
「あまり物には福がある、って言うぐらいなんだから、別に悪口じゃないし」

【彩芽】
「実際、2人には福があったし」

【健一郎】
「どんな?」

【彩芽】
「私とお姉ちゃんが生まれた」

【健一郎】
「はっ。姉はともかく、そこに自分まで入れるのかよ」

自意識過剰。とからかうが、彩芽は軽く受け流す。

【彩芽】
「でも事実でしょ。両親はもちろん、健一郎にとっても私は福なんだから」

【健一郎】
「まぁ……否定はしない」

堂々と自分を福だと言い切る彩芽は、見ていて清々しい。

ズバズバとものを言って、オブラートに包むなんて事はほぼしない。彼女のそんなところが好きだ。

だから付き合えた事は当然として、彼女が存在している事そのものが、俺にとっても幸福だろう。

【彩芽】
「とにかく。そうやって両親が結婚で苦労したから、家訓がそれなわけ」

【健一郎】
「他人に媚を売れ、か。……まぁ、たしかにその方が結婚はスムーズにいくかもな」

無愛想でそっけない人間よりは、媚を売っている人間の方が好まれるだろう。

媚を売る。なんて言い方をすると悪く感じるが、実質は、できるだけ人に親切にしなさい、という事だ。

それなら、良い家訓だと思う。

【彩芽】
「でもさー。媚を売れって言われても、そうそうできるわけじゃないんだよね」

【健一郎】
「今、やってみたのにか?」

【彩芽】
「やったからこそ、だよ。健一郎だったらさ、ずっとにゃんにゃん言っていられる?」

やる? と差し出された猫耳を振り落とす。

【健一郎】
「そんな事やれるか。面倒くさい」

【彩芽】
「そ。面倒なんだよ。あと疲れる」

【彩芽】
「相手に気を使って、言葉を選んで、愛想振りまいて、率先して手伝いするとか。嫌なんだよね」

【彩芽】
「絶対無理。ストレス溜まる。息がつまる。そのまま心臓も止まりそう」

【健一郎】
「……俺も、無理だろうな。どうでもいい相手に気を遣いたくない」

【彩芽】
「うんうん。そうだよね」

【健一郎】
「というより、好きな相手だとしても気を遣うのは疲れる」

【彩芽】
「まさにそれ!」

彩芽は大きくうなずく。

【彩芽】
「『そうやって相手探さなきゃ見つからない。処刑される事になる』って、親からは散々脅されたけど、それでもやる気にはならなかった」

【彩芽】
「実際、そんな事しなくても見つかったしね」

【健一郎】
「おー、そうだな。俺がいて良かったな」

【彩芽】
「はいはい。健一郎は私にとっての福だよ」

俺に対して棒読みで返し、「だから」と彼女は再び話を戻す。

【彩芽】
「だから、そういう事できる人は凄いと思う」

【彩芽】
「具体的に言うと、お姉ちゃんね。私は、お姉ちゃんを凄いと思って尊敬してるわけ」

【健一郎】
「……尊敬、ねぇ?」

【彩芽】
「そう。尊敬。憧れ。自慢の姉」

【健一郎】
「シスコンだなー」

【彩芽】
「あ、そう。それ。愛してる。お姉ちゃんラブ」

【彩芽】
「で。そういう健一郎はさ。嫌いだよね」

【健一郎】
「え?」

軽い言葉で続けられて、心臓が跳ねた。

【彩芽】
「私のお姉ちゃんの事。嫌いなんでしょ」

【健一郎】
「……まぁ」

はじめから、本題はこれだったんだろう。

鋭くなった彩芽の目を直視する気にはなれず、俺は床の猫耳へと視線を落とす。

しかしそれを追いかけるように、彩芽は下から覗き込んできた。

【彩芽】
「別に、さ。無理に好きになれなんて言わないよ」

【彩芽】
「人類みんな仲良し。お手てつないで笑いましょう、なんて無理なんだからさ」

【彩芽】
「っていうか、実際そんなのなったら気持ち悪いし」

そう顔を歪めたかと思うと、そのまま真っ直ぐに俺を見る。

【彩芽】
「でも、健一郎って、たいしてお姉ちゃんの事知らないじゃん」

そうして顔を近づけながら、

【彩芽】
「何も知らないくせに理不尽に嫌って傷つけるようだったら、許さないから」

彩芽はハッキリとそう言った。

;▲

【健一郎】
「っ、はぁ……」

洗面所で顔を洗って落ち着くと、そのまま壁にもたれて座り込む。

すると、台所の方から食器を重ねる音が聞こえた。

そういえば、食事を残してしまったんだった。きっと、1人で片付けようとしているのだろう。

今行けばまだ間に合うだろうと思ったが、戻る気にはなれない。

仮に今戻ったところで、茜の顔を見たらどうせ良い対応はできないだろう。

【健一郎】
「理不尽なんかじゃ、ねぇよ……」

そうだ。これは理不尽な対応じゃない、はずだ。

俺は結婚したくないというのに、そこをずかずかと、笑顔で踏み込んでくる茜が悪い。

だから、俺は苛立つんだ。

まだ目覚めたばかりでこれなんだから、この同棲生活がうまくいくとは思えない。早々に解消すべきだ。

だが、現状で俺が何を言おうとも、茜は引かないだろう。変な正義感を振りかざしてお節介をやいてくる。

だったら……。

……。

……そうだ。

茜自身が、「こんな生活はやめたい」と思うように仕向けよう。

;▲

【茜】
「健くん健くん。このハンバーグ、美味しそうだよね。まさに肉! って感じだね」

【茜】
「健くんは、何かご飯のリクエストとかある? 食べたいものあったら遠慮なく言ってよ」

【健一郎】
「……」

【茜】
「私、料理には結構自信あるんだよ。小さい頃から、お母さんに仕込まれてきたからね」

【茜】
「朝は様子見って感じだったけど、お昼はもうちょっと凝ったものだそうかな。七面鳥とかどう? 一足先にクリスマス気分!」

【健一郎】
「……」

【茜】
「いやいや。いっそ、お正月も先取りしてお雑煮もいいかな」

【茜】
「あ。そういえば叔母さんから、お年玉あげるのは今年が最後だって言われちゃったんだよ」

【茜】
「これからは、自分があげる立場になるかと思うと不思議な気分だよね」

【茜】
「ねぇ、健くん」

【健一郎】
「……」

茜は料理雑誌を眺めながら、しきりに俺に話しかけてくる。

しかし、言葉は返さなかった。

無視。それこそが、同棲解消の一歩だ。

何も反応がなければ一緒にいる意味を見いだせずに寂しいだろうし、そんな子供っぽい行動をとる俺に呆れる可能性もある。

そんな考えのもと、膝をかかえて無視し続けて約4時間。

それだけの間、俺は無反応だというのに――茜は気にした風もなく、平然と話し続けてくる。

【茜】
「あ、話は戻るんだけど、健くんってアレルギーとかある? あったら気をつけなきゃいけないから、言ってよ」

【茜】
「それか、嫌いな食べ物も。たくさんありすぎると困っちゃうけど、ものによっては使うのを減らしたり、調理法を工夫したりするからさ」

隣の部屋に移動しようか、とも思う。

だが、それは駄目だ。無視にならない。俺がいないのと同じだ。

俺がいるのに存在を認識されない、という虚しさを感じさせる必要があるんだから、やはりこの場所から動くわけにはいかない。

やはり、無視だ。

【茜】
「おーい、健くん」

なぜかサングラスをかけて俺に近付いてくるが、無視。

【茜】
「ねぇ健くん。これどう思う?」

今度はビニール袋をかぶっているようだが、無視をして……。

【茜】
「健くーん?」

ヘルメットとマスクをつけても無視を……。

……。

【健一郎】
「……っ」

駄目だった。

【健一郎】
「お前は、さっきからなんなんだ!」

【茜】
「えー。私は私。茜だよ?」

【茜】
「あっ。それとも可愛すぎて天使に見えちゃった? それとも女神?」

【健一郎】
「黙れこの梅干し」

【茜】
「えっ、梅干しとか最高の褒め言葉じゃん! きゃーっ」

【健一郎】
「……俺は梅干しが大嫌いだ」

【茜】
「がーんっ。それ聞いたら、一気にショック……」

【茜】
「あ。でも、嫌いな食べ物答えてくれてありがと! 健くんの天邪鬼ー」

【健一郎】
「そんな事はどうでもいい。お前はさっきから何やってるんだ」

【茜】
「んー? いろいろつけて、健くんの反応見てたんだよ」

【健一郎】
「ハッ。ただかまってほしかったのか。子供みたいなやつだな」

【茜】
「そうそう。かまってほしかったんだよ」

【茜】
「でもね。それだけじゃないよ。これは、健くんにとっても有意義な事なんだから」

【健一郎】
「……どういう意味だ」

【茜】
「健くんは私の顔見ると吐き気がするんでしょ?」

【茜】
「だから、こうすればそういうのも感じないかなーって思ったんだけど、どう?」

【健一郎】
「……聞いたら吐き気がしてきた」

【茜】
「うっわ。ひどいなー」

【茜】
「まぁ、それだけでもなくってね。なんか、顔とか頭にいろいろつけるのって落ち着くんだよね」

【健一郎】
「……っ!」

【茜】
「なんて言えばいいのかな。この気持ちは……そう。闘争心!」

【茜】
「顔とかにいろいろつけると、装備を整えていざ出陣、って気分になるんだよね」

【茜】
「……って、あれ? どうかした?」

【健一郎】
「……別に。ただ、気分が悪いだけだ」

……今茜が言った事は、彩芽も話していた事だった。

彩芽もそうだった。

こんな風に一方的に俺に話しかけてきて、ぐいぐいと近付いてきて、猫耳やサングラスをつけて笑いかけてきた。

今の茜にそっくりだ。

【健一郎】
「くそ……っ」

どうして、こんなところが似ているんだ。

なんで、俺はこいつと同棲なんかしているんだ。

それを思うと、本気で吐き気がこみ上げてきた。

【茜】
「健くん? 顔、真っ青だよ? ……大丈夫?」

【健一郎】
「うるさいっ!」

伸ばされた茜の手を振り払って、立ち上がる。

【健一郎】
「その笑い方も、言葉も、俺を見る目も、なにもかもが気に入らねぇんだよっ!」

【健一郎】
「もう……そんな風に、俺に近づくな!」

目を丸くさせた茜に畳み掛けるように言って、俺は駆け出す。

本当に、苛立つ。吐き気がする。

数時間前、茜が作った料理を口にしたことにすらも嫌悪感を覚えて仕方がなかった。

もう駄目だ。洗面所に行って、すべて、吐き出してしまおう。

;▲

胃の中にあったものをすべて吐き出して洗面所から出ると、そこには茜が立っていた。

【茜】
「……」

さすがに普段よりはぎこちない。けれど、相変わらずその顔には笑みが浮かんでいる。

それを直視するのが嫌で、顔をそむけたまま前を通ろうとすると、服の裾を掴まれた。

手で振り払って歩こうとすると、その腕も掴まれる。

そうして、手にビニール袋を押し付けられた。

【茜】
「あのさ、健くん」

【茜】
「この中のどれか、使えそうかな?」

【健一郎】
「……なんだこれ」

極力茜の方を見ないようにしつつ袋を開けば、中には何種類かの瓶や箱が入っていた。

取り出して見てみれば、鎮痛剤、吐き気止め、咳止め、胃腸薬……いくつもの薬がある。

それから……。

【健一郎】
「レシート……?」

【茜】
「あっ、ごめん。入れたままだっけ」

袋の中に一緒に入っていたそれを手に取ると、茜がすぐに奪い去っていく。

家計簿につけなきゃ。などとつぶやいて丁寧にポケットにしまわれたそれは、今日の日付が印字されていた。

【健一郎】
「……お前、わざわざ買いに行ったのか」

【茜】
「あー、うん。救急箱の中身だけじゃ、ちょっと種類が足りないと思ってさ」

【茜】
「散歩してきた」

そうは言うが、俺が洗面所にいた時間なんて、せいぜい長くて10分といったところだろう。

コンビニで買ったと考えるには、薬の種類が多い。

という事はドラッグストアか薬局あたりだろう。

まだここの地理は把握できていないが、窓から見た分だと、周辺にそれらの店は見当たらなかった。

そうして改めて茜を見れば、その肌はじっとりと汗ばんでいた。

髪の毛も、整えられているとは言いがたい。ところどころ跳ねている。

……茜は、この薬をわざわざ走って買ってきたのだろうか。

探るように見つめていると、彼女は「あー」と頭を掻いた。

【茜】
「代金の方は気にしなくていいよ。私、こう見えてもお金持ちだからさ」

【茜】
「バイトで貯めたお金がたくさんあってね」

【茜】
「もう、私自身が宝箱。宝物庫。大判小判がザックザクだよ」

あはは、と茜が笑う。

その声はどこまでも能天気だ。おだやかだ。俺に気遣った声色だ。

俺とは、大違いだ。

俺は朝から情緒不安定で、子供っぽい真似をして、文句ばかりを言っている。それなのに、そんな俺にまだ気を遣うのか。

そう思うと、収まったはずの怒りが再び湧き上がった。

そうして、

【健一郎】
「おい」

【茜】
「っ!?」

その衝動のまま、俺は茜の両手首を掴んで床に押し倒す。

手放したビニール袋は床に落ち、薬の瓶が転がった。

壁にぶつかるそれを一瞥してから、茜に視線をうつす。

【茜】
「っ、痛……。な、に?」

【茜】
「立ちくらみでも、した……?」

【健一郎】
「そんなわけあるか。故意に決まってんだろ」

両手首は掴んだまま、茜の体にのしかかる形で両足も封じれば、完全に見下ろす形になった。

倒れた時に少し背中でも打ったのか、茜が眉をひそめながらわずかに動こうとする。

しかし、位置関係と男女の体格差という優位性があるため、そんな些細な動作さえも封じるのはたやすかった。

自らの弱さに気が付いたのか、茜の眉間のしわが深まる。

【茜】
「……これは、どういう遊びかな?」

【健一郎】
「遊びじゃない」

【健一郎】
「お前がどんなつもりで『なんでもする』と言っていたか知らないが、たいして親しくもない男と同棲するというのはこういう事だ」

【健一郎】
「本当に、何をされてもおかしくない、って事だ」

見下ろした茜の姿は、お互いに立って見ていた時よりも華奢に感じられた。

この一室には俺と茜の2人きり。

時間帯としてはまだ昼になるかどうかといった頃で、隣の部屋からは人の気配がしない。

【健一郎】
「お前が騒いだところで、きっと人はこない」

【健一郎】
「この状態で大声を出そうとすれば、口を塞ぐのも簡単だ」

【健一郎】
「今なら本当に、お前に――この体にどんな事でもできる」

【健一郎】
「いや。今だけじゃない。同棲をしている以上、お前に逃げ場はないからな。いつだって、どんな風にだってできる」

俺は口角をつり上げて、下卑た笑いをつくる。

両手首を握った手に力をこめて、睨め回すような視線を向ける。

そんな風にして、恐怖を煽った。

【茜】
「……う、」

煽った――つもりだったが、

【茜】
「うわーぉ。なにこれ。私、愛されちゃってる? 子供に見せられないような展開はじまっちゃう?」

茜はまた、笑った。

【茜】
「うっわ。ドキドキするね、こういうの。まぁ、突然押し倒されたらそれが普通なんだけどさ」

【茜】
「あー、びっくりした。健くん、サプライズ上手だね」

【茜】
「私、もっと他人を驚かせたいなってよく思うんだけど、失敗してばっかりなんだよね」

【茜】
「だから、健くんの事『師匠』って呼んでいい?」

【健一郎】
「ふざけるな!」

【茜】
「師匠が嫌なら、先生がいい? それとも先輩とか? それ以外だと、んー……マスターとか?」

【健一郎】
「ふざけるなって言ってるだろ!」

馬鹿な事ばかり言い続ける茜を黙らせようと、腹のそこから声を出す。

だが、それでも茜の口元は笑みをかたどったままだった。

眼差しも強く、俺が望むような、嫌悪や恐怖をまじえたものにはならない。

それどころか、俺が睨みつけるほどに彼女の目は穏やかなものになっていった。

【茜】
「……ふざけるなって言われても。ここは、ふざけるしかないじゃん」

【茜】
「だって、実際できないでしょ?」

【茜】
「健くんがただのフリでこんな事するんだから、私もそれっぽくノってあげた方がいいかなぁって思ったわけ」

【健一郎】
「……ただのフリ、か。ハッ!」

【健一郎】
「俺の事を優しい男だとでも思っているなら、大間違いだ」

【健一郎】
「俺はやる。お前が俺の意にそぐわない事をするっていうなら、いくらでもお前をいたぶってやる」

今すぐにでも、と。俺が言って動こうとすると、茜は溜め息を吐く。

【茜】
「……だーかーらー」

【茜】
「優しいとか優しくないとか。するとか、しないとかじゃなくってさ」

【茜】
「できないでしょ、君には」

【健一郎】
「……なに?」

【茜】
「できないよ、君は。彩芽の事をまだ好きな君には、そんな事なんてできない」

【茜】
「彩芽を裏切るようなそんな真似が、君にできるはずがない」

茜は目を閉じると、ゆるく首を振る。

それからゆっくりとまぶたを上げて、再び俺を見つめた。

【茜】
「……君がそんな事をできるのなら、私は、同棲なんてしようと思わなかったよ」

【茜】
「君が、今の君だから」

【茜】
「彩芽だけを見続けたまま……そのまま追いかけて死んじゃおうとしているから、私は同棲を決めたんだよ」

――ほら。君は、何もできないよね。

そう囁くような声で言って、茜は全身の力を抜いた。

床に体をあずけて、ただただ静かに呼吸するだけの彼女。

わずかに乱れたその服を脱がせることも、ほんのりと上気したその頬を叩くことも、無防備にさらされたその白い喉を握ることも、簡単だ。

さっきまでよりも、さらに楽になった。

そのはずなのに、俺の全身は逆に重みを増したように感じる。

【茜】
「ねぇ、どうしたのかな? 何も、しないのかな?」

【健一郎】
「……しない」

【茜】
「どうして? 酷い事して、私が『同棲やめる!』って叫ぶの、待ってたんじゃないの?」

【健一郎】
「……わかってたのかよ」

【茜】
「そりゃねぇ。バレバレだよ。わかりやすい」

【茜】
「君には嘘は無理だね。彩芽もよく、そう言ってたよ」

【健一郎】
「……あいつが?」

【茜】
「そ。『健一郎は嘘が嫌いみたいなんだけど、あれはきっと嫌悪っていうか憧れだね。自分が嘘吐くの苦手だから嫉妬してるんだよ』ってね」

茜は肩をすくめる。

そのまま、俺をどかすようにして起き上がると、目を細めてとびっきりの笑顔で言う。

【茜】
「ま、とにかく。薬なんて必要ないぐらい元気みたいで良かった」

【茜】
「じゃあ、同棲生活再開だね」

その顔を見て、俺は悟った。

こういう類の事をいくらしたところで、茜が同棲の解消をする事はないだろう、と。

;▲

コンビニに行ってくる。そう言って家を出た俺は、近くの公園に足を運んだ。

そうして、ブランコの前にいた人間を見つけて軽く手を振る。

【小百合】
「……久しぶり」

【健一郎】
「ああ。急に呼んで悪いな」

【小百合】
「もともと、この近辺には用事があった。きみは、ただのついで」

抑揚のない声でつむがれる言葉はそっけないが、それぐらいの方が、今の俺にはありがたい。

【健一郎】
「メールを見てくれたんだよな?」

【小百合】
「見た」

【小百合】
「けれど、よくわからない」

【小百合】
「……ニセの婚約者役、とは、どういう事?」

ニセの婚約者。それこそが、ここに彼女を呼び出した理由だ。

茜には、嫌がらせをしても何の意味もない。その結論を踏まえて出した次の案は、『茜は必要ない』と思わせる事だった。

結局のところ、彼女は俺を死なせないためだけに結婚すると言った。

つまり俺が死なない――他に結婚相手がいる、となれば、彼女は同棲をやめるはずだ。

そうしてニセの結婚相手を考えた時に思い浮かんだのがこいつ、従兄妹である館林小百合だった。

今では年に1度顔を合わせる程度だが、幼い頃はそれなりに遊んでいたから、性格もある程度わかる。

また、顔に感情が出にくくて嘘が得意な方であり、年齢的にも俺と結婚ができる。まさに適役だろう。

ただ、いかにはまり役だろうと、役者が演じてくれなければ舞台の幕は上がらない。

そこが問題なのだが……。

【小百合】
「偽物、という事は、実際には結婚しない事になる」

【小百合】
「では、きみは誰と結婚するの?」

【健一郎】
「……その事なんだが」

俺はごくりと唾を飲む。それから、極力穏やかな声を出した。

【健一郎】
「俺は、誰とも結婚せずに処刑されたいんだ」

小百合に真剣な眼差しを向ける。と、

【小百合】
「……そう」

彼女は相変わらずの平坦な声を返した。

【健一郎】
「反応薄いんだな」

【小百合】
「……?」

【健一郎】
「もっと、止められるかと思った」

【小百合】
「きみが死んでも、ワタシには関係ない」

【小百合】
「それに、そういう事は他人が何を言っても意味がない」

【小百合】
「すべて、本人の心次第。その人が本気で望んでいる事なら、何をしても無駄」

【小百合】
「他人の心を操る事はできない。それなら自分の心と向き合う方が有意義」

【健一郎】
「はー……。相変わらずサッパリしてるな」

【小百合】
「そういう理由があるなら、ワタシは役を演じてもいい」

【健一郎】
「そうか。それは助かる」

【小百合】
「でも、訊きたい事がある」

【健一郎】
「ん?」

【小百合】
「健一郎はなぜ、処刑されようとするの?」

【健一郎】
「……あー。お前は知らなかったっけ」

【健一郎】
「俺には婚約者がいたんだけど、その、彼女は……」

亡くなった。そう改めて口に出すのがはばかられて、言いよどむ。

すると、小百合は俺の言葉を待たずにうなずいた。

【小百合】
「それは知ってる」

【小百合】
「ニュースで見た。きみの婚約者は、無理心中を狙った通り魔に刺された、と報道されていた」

【小百合】
「でも、それからもう1年以上も経ってる」

【小百合】
「それが変」

【健一郎】
「変?」

それは、俺の両親のように、『彼女の事は早く忘れろ』と言いたいのだろうか。

【健一郎】
「……あいつの死を引きずりすぎだ、って言いたいのか?」

【小百合】
「そう。きみはもっと早く断ち切るべきだった」

【小百合】
「すぐにでも、自分の手で命を断つべきだった」

【小百合】
「なのに、なぜ?」

【健一郎】
「……ああ。お前が言ってるのは、どうして自殺しないのかって事か」

【小百合】
「そう。ワタシがきみの立場だったら、もう死んでいるはず」

【小百合】
「好きな人が隣にいない世界なんて、生きている意味がない」

【小百合】
「なのに、きみは生きている。生きているのに処刑を待っている。理解できない」

【健一郎】
「……そうだな。俺も、葬儀の直後は自殺しようと思った」

【健一郎】
「だが、やらなきゃいけない事があった」

【小百合】
「それは?」

【健一郎】
「婚約者の……彩芽との約束があったんだ。絶対一緒の大学に行く、って」

――同じ大学に行こうよ。

今から約1年半前。夏祭りの真っ只中という時にそう言い出したのは、彩芽の方だった。

急になんだよ。と問いかければ、彼女はその時買ったばかりの狐面をつけて、言った。

「お祭り一緒に楽しんでたらさ。このまま……もっと、いろんな事を健一郎と一緒に楽しみたくなったんだよね」と。

普段ハッキリ言う彼女にしては珍しく、その声はとぎれとぎれだった。

狐の面をつけたのも、おそらく照れくさかったんだろう。

そうして顔を隠したまま、彼女は俺の手を引っ張って祭りの喧騒から抜け出した。

その数時間後には大学のパンフレットを指差して「絶対ここ合格しよ」と言い、勉強会が始まった。

それが、約束だ。

彼女が死んでしまった今、一緒に大学に行く事はできない。

けれど、約束は約束だ。

【健一郎】
「処刑されたら通うことはないが、大学に合格するという目標だけは達成したいんだ」

【小百合】
「それなら、理解できる」

【健一郎】
「……それにどうせなら、俺は、あいつと同じ死に方をしたいんだ」

【小百合】
「処刑方法は一般に公開されていない。だから、刺されるとは限らない」

【健一郎】
「いや。同じ死に方といっても、俺は刺されて死にたいわけじゃない」

【小百合】
「……では、どういう意味?」

【健一郎】
「それは……まぁ、いいだろ。いろいろあるんだよ」

そうだ。俺が望むのは、彩芽と同じように……。

……。

【健一郎】
「それよりも、お前は婚活してるのか?」

【小百合】
「していない。必要ない」

【小百合】
「ワタシには、死ぬまで一緒と決めた人がいる」

【小百合】
「あの人がいるから、いい」

【健一郎】
「……あの人? 恋人がいるのか?」

【小百合】
「ワタシの感情はもう、恋とは違う。愛」

【小百合】
「ワタシはあの人に愛を捧げる。あの人のためなら、命をかけてもいいと思える人」

【健一郎】
「……とにかく、凄く好きって事なんだよな」

【健一郎】
「そんな相手がいるのに、俺の婚約者役なんてやって大丈夫なのか?」

【小百合】
「かまわない」

【小百合】
「そんな事で、ワタシとあの人の関係は変わらない」

【小百合】
「ワタシとあの人の繋がりは、絶対に揺るがない」

【健一郎】
「……そうか」

【小百合】
「そう」

その返事には、強い想いが込められていた。

それが、どのような類の感情なのかまではわからない。

けれど、さっきまでの淡白な声とはまるで違う響きが混じっていたのはたしかだ。

その事が、とても羨ましいと思う。

俺もそんな風に、彩芽とずっと生きていくのだと考えていた時があった。

それは、2年前。結婚式を見るのが好きだという彩芽に連れられて、式場に行った時の事だ。

;▲回想

【彩芽】
「うぅ……っ」

【健一郎】
「いい加減、落ち着けよ。まわりから見られてるぞー」

【彩芽】
「うるさい。あんなの見て、落ち着けるわけないじゃん」

【健一郎】
「いいから、落ち着けって。どうせ、俺たちには何もできないんだから」

今にもどこかへ飛び出しそうな彩芽を押さえつけながら、俺は壇上に目を向ける。

そこではさっきからずっと、誓いの儀式が行われている。

腕輪を嵌めて、キスをして、鐘の音を鳴らす。

そうしたらそれぞれの親族のもとに行って、喜んで。そのまま披露宴やら新居やらに移動。

代わり映えのしない結婚式。流れ作業だ。

ただ、ついさっきその流れが崩された。それによって、彩芽は今も唇を噛み締めているわけだ。

【彩芽】
「だって、あの子はさっき鐘を鳴らしたんだよ!?」

【彩芽】
「なのに、どうして連れて行かれちゃったの!? おかしいよ!」

【健一郎】
「……まぁ、自分で14歳って言ってたからな。キスした男の人とは、結婚できない年齢差だっただろ」

女性の場合、結婚できるのは16歳から。

それなのに、さっき突然壇上に登った子は、14歳だと宣言したうえで男性とキスをして鐘を鳴らした。

その途端、黒服の男性たちがやってきて、その子はどこかへ連れて行かれてしまった。

【健一郎】
「あの様子だと、なにか不正を働いたんじゃないか?」

【彩芽】
「……そうだとしても、鳴ってたじゃん」

【彩芽】
「キスして鐘の音が響いたら結婚の証、っていうのがこの儀式なのに」

【彩芽】
「鳴らしたあの子が、あんな風に連れて行かれるのは絶対おかしい!」

【健一郎】
「……そう言ってもな。そのあたりは、今頃あの黒服の男たちと話してるだろ」

【彩芽】
「何言ってるの!? あれ見たでしょ。あのいかつい男達だよ!?」

【彩芽】
「まともな話し合いしてるかどうか、怪しいよ!」

【健一郎】
「だったら、尚更俺たちには何もできないって。下手に関わったら、どうなるかわからないだろ」

また興奮して暴れだした彩芽を、なんとかおさえる。

彩芽がまだ小柄な方で良かった。そうじゃなかったら、俺ごと引きずられていそうな勢いだ。

【彩芽】
「離してよ!」

【健一郎】
「駄目だって。危険だろ。そんなに気にするなよ」

【彩芽】
「気になるよ! 気にならない健一郎はおかしいんじゃないの!?」

【健一郎】
「いいや。ここは、おとなしくしてるのが大人の対応だ」

実際、周りがそうだ。

14歳の子が別室に連れて行かれた直後はさすがに騒がしかったものの、次のカップルが儀式を行えば、すぐにまた祝福する雰囲気に包まれていた。

時々、別室の方をみて何かをささやくような人はいるが、彩芽ほど暴れている人は他にいない。

【健一郎】
「お前、なんでそんなにさっきの子が気になるんだよ」

【彩芽】
「そりゃ、理不尽だからだよ。成果を見せたのにそれを認めてもらえないなんて、苛々する」

【健一郎】
「理不尽ねぇ……」

たしかに、可哀想だとは思った。年齢差のせいで結婚する事ができない。悲劇だ。同情する。

だが、俺は理不尽だとは思わない。

結婚できる相手は、女性なら2歳上の男性まで。男性だったら、2歳年下の女性まで。

それは、初めからこの国で示されているルールだ。

それを外れたら結婚できないという事は、この国で生きていればわかっていたはずだ。

それなのに、その枠組みから外れて恋をしてしまったのがいけない。

そんな相手に惚れてしまったあの子は、運が悪い。そう思う。

俺にとって大事なのは、そんな運の悪い子を心配する事よりも、目の前の彩芽を止める事だ。

【健一郎】
「本当に、そろそろ落ち着いてくれよな……」

;▲黒

――彩芽が死んだのは、その結婚式の後。

結局怒りがおさまらないからと、2人で役所に文句を言いに行こうとした道中の事だった。

結婚したいと思った相手と、結婚できなかった。

その点でいえば、俺はあの14歳の子と一緒だった。

『結婚できないなんて、運が悪かったんだな』と。

他人事の時はそう軽く片付けたというのに、当人になったら、そんな簡単にはいかないのだと知った。

;▲玄関

【茜】
「あ、おかえりー」

小百合を連れてアパートに戻ると、軽い足音をたてて茜が出迎えた。

その目に眼帯がつけられているのは、また、顔を隠すというお遊びだろう。

隠されていない目が輝いて、俺の反応に期待しているの事はわかった。

しかし、わざわざ相手をする義理はない。無視して小百合を紹介する。

【健一郎】
「茜。こいつは舘林小百合。昔馴染みだ」

【茜】
「えっ、お客さん!? ごめん、気付かなくって」

途端に眼帯をとり、茜が微笑む。

【茜】
「初めまして、小百合ちゃん。私は相模(さがみ)茜。よろしく」

【小百合】
「……よろしく」

【健一郎】
「小百合は俺の従兄妹なんだが、ちょっと会ったから連れてきたんだ。それで……」

言葉を止めて、軽く小百合をつつく。

頼るのはなさけないが、俺の嘘ではバレバレらしいから、ここは彼女に任せるのが一番だ。

【小百合】
「ワタシは、彼と結婚したい」

【健一郎】
「……と、いう事だ」

【茜】
「……へぇ。そっか。結婚かー」

【茜】
「って、えっ!? けけけ、結婚!?」

【茜】
「なにそれっ!? えぇっ!? 急に結婚って、どういう事!?」

【健一郎】
「何驚いてんだよ。お前だって、急に結婚を言い出してきたくせに」

【茜】
「いや、うん。まぁ、そりゃーそうだけど……従兄妹、従兄妹かぁ」

【茜】
「たしかに、従兄妹同士でも結婚はできるんだよね」

【健一郎】
「ああ。年齢的にも、法律上問題はないぞ」

【茜】
「うーん。でも……えーっと、小百合ちゃん」

【茜】
「結婚するっていうのは、どうして? 彼が好きなのかな?」

【小百合】
「違う。ワタシは彼を愛している」

【小百合】
「とても、とても愛している」

【茜】
「あ、愛……っ!?」

【茜】
「そっか。愛しちゃってる、んだ。……そっかぁ」

【小百合】
「そう。ワタシと彼の邪魔は、誰にもさせない」

【茜】
「……す、すごいね」

これには、さすがの茜も戸惑っているらしい。

しかし、それも仕方がないだろう。小百合の嘘は完璧だ。堂々としている。

嘘だと知っている俺でさえ圧倒されそうなほど、小百合の目は真剣だった。

そうしてそんな視線を正面から受けた茜は、少し目を逸したあと俺に小声で話しかけてくる。

【茜】
「ちょっと、健くん。これどーいう事?」

【茜】
「こんなに想ってくれる相手がいるなんて、私、聞いた事なかったよ?」

【健一郎】
「ああ。俺もさっき久しぶりに会って、いろいろ知った」

【茜】
「愛されてるってわりには、私はこの子の姿を見たの初めてだよ?」

【健一郎】
「小百合は、感情を内に秘めるタイプだからな。これまでは表に出さなかったんだろ」

【茜】
「ふーん……」

【茜】
「それで? 健くんは、この小百合ちゃんと結婚するの?」

【健一郎】
「それは……」

少し強くなった声で言われて、言葉につまる。

そうだ。と嘘を吐くのが正しいはずだ。実際、今この瞬間までそのつもりだった。

だが、いざ言おうとしたら、たとえ嘘でも――いや。嘘だからこそ、彩芽以外の人間と結婚するなんて事は言いたくなかった。

彩芽が最期まで望み、叶わなかったのが結婚だ。それを軽々しく口にしたくはない。

その言葉を俺自身が告げた瞬間、彩芽を裏切ってしまうような気がする。

そう感じて言いよどんでいると、小百合が俺を庇うように前に出た。

【小百合】
「健一郎が結婚するのか、今はわからない」

【小百合】
「健一郎は、死にたがり」

【茜】
「うん。……だよね」

【小百合】
「けれど、健一郎はきみより、ワタシを選んだ」

【小百合】
「健一郎は、きみと結婚したくないと思っている」

【小百合】
「きみは必要ない。それは事実」

【茜】
「あー……。そういう事になるの?」

【健一郎】
「ああ。そうだ」

今度は、すんなりと声が出た。

【健一郎】
「何回も言ってるだろ。俺はお前なんか嫌いだ。同情で結婚されるなんて最悪としか言い様がない」

【健一郎】
「頻繁に話しかけてきて鬱陶しいし、あれやこれやと世話を焼かれてもわずらわしい」

【健一郎】
「それと比べれば、小百合といる方が平和でいい」

【茜】
「ふーん。じゃあ、もし結婚するなら私より小百合ちゃんを選ぶって事なんだね」

【健一郎】
「まぁ、可能性としてはな」

【茜】
「なるほどねー。たしかに、健くんがこの人と結婚するなら、私の結婚ボランティアは必要ないね」

うんうんと、茜は小刻みにうなずく。

それから、「でもさ」と続けた。

【茜】
「小百合ちゃんは、偽物の結婚相手だよね?」

【健一郎】
「……ハ?」

【小百合】
「……」

【健一郎】
「な、何言ってんだよ。お前、小百合を馬鹿にするのか?」

【健一郎】
「こいつの目を見ろよ。嘘言ってるように見えるのか!?」

【小百合】
「……私は、彼と結婚したい」

【茜】
「うーん。そうだね。たしかに、嘘を言っているようには見えないね」

【茜】
「でも、健くんと結婚したい、って言ってるようにも見えないんだよね」

【健一郎】
「なっ……!」

【茜】
「その場合、何が言えるのかっていうと……うん。そうだね。つまり、両方本当」

【茜】
「小百合ちゃんは、嘘を言ってるんじゃなくって、言葉を隠してる」

【茜】
「さっきから言っている『彼』っていうのは健くんの事じゃなくって、他の誰かを思い出して言ってるでしょ?」

茜がそう問いかけると、

【小百合】
「……そう。正解」

小百合はうなずく。

……まさか、こんなにあっさりバレてしまうとは思わなかった。

疑われる事は覚悟していたが、ここまで確信をもって言い当てられるのは想定外だ。

【健一郎】
「……また、俺の態度でバレバレだったのかよ」

【茜】
「んー? いやいや、今度はちょっと頑張ってたよ」

【茜】
「小百合ちゃんも、全然動じないから騙されちゃうところだった」

【茜】
「でも、前例があったからねー」

【健一郎】
「……前例?」

【茜】
「そ。残念だったね。ニセの結婚相手役って、私も前にやった事あるんだよ」

【茜】
「まぁ、私の場合はそのまま、本物の結婚相手になっちゃったりしたんだけどさ」

【茜】
「みんな似たような事考えるんだなーって思って、面白かったよ」

【健一郎】
「面白いだと? ……馬鹿にしているのか」

【茜】
「いやいや、そんな事ないって」

茜はぶんぶんと首を横に振る。

それから、「とにかく」と続けた。

【茜】
「それが嘘なら、やっぱり私が結婚するしかないからね」

【茜】
「まだまだ、同棲よろしくね?」

相変わらず、茜は微笑む。

;▲別の日

【健一郎】
「……ふぅ」

深夜2時をまわった頃。帰宅した俺は、壁によりかかって溜め息を吐く。

この時間なら、茜はもう眠っているだろう。そう思ったのだが、

【茜】
「健くん、おかえり」

パタパタと足音をたてて、彼女は俺の前に立った。

【茜】
「今日もお疲れ様」

【健一郎】
「……」

【茜】
「お夕飯温めなおすから、その間にお風呂入っといてよ」

【健一郎】
「……わかった」

俺はとりあえずうなずいて、キッチンに消えていく茜の後ろ姿をぼんやりとながめる。

結局、茜に同棲解消を言わせる事ができないまま、3週間が過ぎてしまった。

嫌がらせも、嘘も無駄だった。茜の態度はまるで変わらなかった。

だから、もういっその事、同棲している意味をなくしてしまおうと考えた。

休日ならば、朝食だけとって外に出る。

平日は普通に学園に行き、なるべく校内に残る。下校時刻になったら、夕闇の中を図書館へと向かう。

そこで勉強をするのだが、近くの図書館の閉館は19時なので、そのあとは再び外だ。暗くなった街中をフラフラと歩く。

本当はそのまま朝までいたいが、さすがに野宿する気にはなれず、毎日ホテルやネットカフェなどで一夜を明かすほどのお金もないため、こうして家に帰る。

そうして、極力ここにいる時間を減らせば茜とあまり顔を合わせる事もなく、問題も起きない。

そう思ったのだが――今日のように、茜がいる。

しかもあの遊びは続いていて、いつも何かで顔を隠した状態で、だ。

この3週間。毎日確実に、2人分の食事が用意されていた。

何時に帰っても、彼女は起きていた。

それも、ベッドのシーツに乱れがない事からすると、ずっと起きて待っているのだろう。

俺を待って、食事すらもとらない茜の姿を想像して、思った。

馬鹿じゃないのか、と。

;▲

【茜】
「おかえり」

その翌日も、やはり彼女は立っていた。

時計の針は、3時30分を指し示している。

茜がいつも何時に起きているのかは知らないが、遅刻ギリギリまで眠っている俺と違って、彼女は炊事や掃除もすませている。

これでは、睡眠時間もあまりとれてはいないはずだ。実際、目の下には隈ができている。

【茜】
「じゃあ、ご飯温めるね」

いつものように、茜はキッチンに向かう。その足取りがすこし覚束無い事に気付いて、

【健一郎】
「もう、出迎えるのはやめろ」

思わず、その背中に声をかけていた。

途端に彼女は足を止める。

それから、軽やかな動作で振り返った。

【茜】
「えー。なんで?」

【健一郎】
「……寝ろ」

【茜】
「って言われてもね。眠くないのに無理やり寝るのって、辛いんだよー」

【健一郎】
「嘘を吐くな。俺を待って起きているくせに」

【茜】
「わ。そう見えちゃった? うーん、びっくり」

【茜】
「それは、自意識過剰ってやつだよ?」

【健一郎】
「……だったら、どうして1人では食事もとらないんだ」

【茜】
「あー。夕方って、食欲なくってさ」

【茜】
「健くんの顔みると、わくんだよね。食欲。君ってなんか、ごはんが進む顔してるんだよ」

【茜】
「あ、ほら。言うでしょ。しょうゆ顔ってやつ。きっと、君の顔はそれだね。しょうゆって食を促進させるからね」

【茜】
「卵がけご飯とかさ。お刺身とか。プリンにしょうゆ……は、ちょっと違うか」

【茜】
「あ、そういえば健くんって目玉焼きには醤油派? それとも」

【健一郎】
「話を逸らそうとするな」

【茜】
「……じゃあ、本題は何かな?」

【健一郎】
「それはずっと言ってる」

【健一郎】
「俺は結婚したくないんだ」

【茜】
「うん」

【健一郎】
「お前がいちいち気遣う必要はない。いや、まず、お前なんて必要ない」

【茜】
「うん。そっか」

【茜】
「じゃあ、私には健くんが必要、って事でどうかな」

【健一郎】
「……どうしてそうなるんだ」

【茜】
「嘘は言ってないよ? 奉仕って、する相手がいないとできないからね」

【茜】
「そういう意味では、私には健くんが必要なんだよ」

茜はそう平然と言い切って、

【茜】
「君の顔見過ぎたら、お腹すいた。早くご飯にしよっか」

またすぐに背中を向けた。

その歩みがもうふらついていないのは、また、気遣われたという事なんだろう。

本当に、茜は馬鹿だ。

;▲

【茜】
「あ、おはよう。今日は早いね」

【健一郎】
「……」

【茜】
「ご飯はまだできないから、そのあたりに座って待っててよ」

翌朝。やはり、茜は俺より先に起きていた。

うながされるがまま椅子に座って、茜が料理する様子を眺める。

彼女は、手伝う気がまるでない俺にも、文句を言う様子はなかった。

ただ、眠そうな目をこすりながら忙しく動いている。

鍋の火加減をみたり、フライパンに油をひいたり。

様々な動作をするその姿を見ていると、ふっと、思う。

【健一郎】
「……なぁ。お前、俺がいない昼や夕方は何をしているんだ?」

【茜】
「おっ。なになに? 茜ちゃんの生態に、興味津々?」

【健一郎】
「……別に。ちょっとした疑問だ」

【茜】
「んー。そうだね。掃除とか洗濯とか、料理の仕込みとか一通りやって……。あとは、ぼーっと?」

【健一郎】
「ぼーっと、って……。お前、趣味はないのか」

【茜】
「掃除、洗濯、料理が趣味だよ!」

【健一郎】
「他には?」

【茜】
「あるけど、外に出ないとできない趣味ばかりだからね」

【健一郎】
「なら、出ればいいだろ」

【茜】
「そうだけど……まぁ、最近はね。ちょっとそんな気分じゃなくって」

茜は、少し言いにくそうにしながら答えた。

ここで言う『最近』は、きっと俺と同棲を始めてからだ。

俺がいつ帰ってきても、出迎える事ができるように外へ出ないんだろう。

【健一郎】
「……俺なんか構ってないで、もっと誰かと遊んだりすればいいだろ」

【健一郎】
「お前には、友達がいるだろ?」

問いかけではあるが、それは確信だった。

茜は俺以外にも世話焼きで、おせっかいで、少しでも困っている人がいれば率先して話しかけていくような人間だ。

友達がたくさんいるんだよ、と彩芽が自分の事のように自慢していたのも知っている。

だから、いるはずだ。

俺以外の、もっとリラックスして会話のできる有意義な人間がたくさんいる。

そう思ったのだが――茜は苦笑した。

【茜】
「んー。実は、いないんだよね」

【健一郎】
「嘘を吐くな」

【茜】
「嘘じゃないよ。私、友達ってそんないないよ」

【茜】
「軽く話せる知り合いなら多いけどね。一緒にいて心から楽しい友達っていうと、少ないかなー」

2人ぐらい。と、彼女は小声で言う。

【健一郎】
「……だったら、その少ない友達はどうした」

【茜】
「1人は、既婚者だからね。勉強とか、家の事で忙しそうなんだよ」

【健一郎】
「もう1人は?」

【茜】
「もう1人は……ちょっと、ね。いろいろあって」

【茜】
「今はお友達お休み中、って感じなわけ」

一瞬、沈黙が落ちた。少し空気が重くなったのを感じる。

すると、茜はすぐさまその雰囲気を吹き飛ばすように、明るい声を出した。

【茜】
「だから、私は健くんにいろんな事する時間があるんだよ」

【茜】
「存分に、お世話されていいんだよ!」

手に持ったお玉を揺らしながら言う彼女は、とことん笑顔だ。

……腹立たしい。

;▲別の日

【健一郎】
「……はぁ」

相変わらず、俺は深夜に帰るようにしていた。

そうして、今日も2時を過ぎた頃に扉を開けたのだが……。

いつもなら聞こえてくるはずの、茜の足音が聞こえてこない。

数秒待ってみたが、しんと静まり返っている。

しかし、室内には明かりがついている。うたた寝でもしているのだろうか。

そう思いつつ、足音をたてずに、そっと奥の部屋へと進む。と、

;▲別部屋

【茜】
「あ」

【健一郎】
「……」

茜が、タンスに顔をつっこんでいた。

無言のままその姿を凝視すれば、彼女は照れくさそうに「あはは」と笑う。

【茜】
「あー。今日は、思ったより早かったね。タイミング悪かったなー」

【健一郎】
「……タイミング?」

【茜】
「そ。実は今、今日のファッションを決めていたところだったんだよ」

ファッション。と茜は言うが、服が特別違うようには思えない。見慣れたものだ。

いったいどんなものに着替えようとしていたのか、と少しだけ気になって彼女の手元を覗き込むと、茜が持っているのは包帯だった。

その横にあるのは、花嫁がかぶるようなベール。その隣は、覆面だ。

【健一郎】
「……それが、ファッションなのか」

【茜】
「うん。今日は、ミイラ風でいこうかなって」

言われて、ようやくわかった。

ここでいうファッションは、あの、顔に様々なものを装着するお遊びのものらしい。

わざわざこんな風にして悩んでいたのかと思うと、呆れるばかりだ。

【茜】
「ミイラ風、どう思う?」

【健一郎】
「どうでもいい」

【茜】
「じゃあ、こっちのガスマスクが良いかな?」

【健一郎】
「どうでもいい」

【茜】
「んー……」

俺の返事にふまんげな顔をして、茜はがさがさとタンスを漁る。

そうして、何かを掴んで掲げた。

【茜】
「じゃあ、これ? 狐のお面!」

【健一郎】
「狐の、面?」

それを見た瞬間、目が離せなくなる。

【健一郎】
「それは……」

見覚えがある。

知っている。

【茜】
「おっ。なになに。食いつきいいね。これ、実家に飾ってあったから持ってきたんだけど、私もお気に入りでね」

それは。その面は――。

【茜】
「こんな風につけると、視界が狭いんだけどそれがまた雰囲気あって」

【健一郎】
「っ、それに触るな!」

【茜】
「えっ? って、きゃっ!」

俺は茜を突き飛ばして、その手から狐面を奪う。

【茜】
「ど、どうしたの……?」

【健一郎】
「これは、彩芽のものだ」

【茜】
「え……っ」

【健一郎】
「俺が、彩芽にあげたものだ」

【健一郎】
「彩芽が……大切にしてくれていた物だったんだ」

【茜】
「そ、っか……」

【茜】
「ごめん。その事知らずに、私、適当な扱いしてて……」

【健一郎】
「ああ。本当にな」

改めてその面を見れば、表面に真新しい傷がついていた。

さっき、茜が探った時についたのかもしれない。

そう思うと、怒りが湧き上がる。

【健一郎】
「お前がやる事は、どれもこれもただの自己満足だ!」

【健一郎】
「俺が望んでいた事なんて、何一つない。お前が勝手にきて、荒らしまわって、それで満足しているだけだ」

【健一郎】
「お前は、そうして俺をかき乱すだけじゃなくて……彩芽の思い出さえも、荒らしていこうっていうのか!?」

俺が怒鳴ると、茜は目を見開いて、

【茜】
「あ……っ」

【茜】
「ごめん。本当に、そんなつもりじゃなくて、その……。ごめんね」

そう言って、静かに部屋を出て行った。

【健一郎】
「……くそっ」

茜がいなくなると、途端に部屋が広くなったように感じる。

その静かな室内が落ち着かなくて、俺は視線をさまよわせる。

それから、狐面をそっと床においた。

そうして見下ろすと、どこからかセミの鳴き声が聞こえてくるような気がする。

ああ……そうだ。これを買ったのは、暑い夏の日。

一緒の大学に行こう。と彩芽が言い出した、あの祭りの時の事だった。

;▲
【彩芽】
「あー。良かった。良かった」

【彩芽】
「いい買い物したなー」

【健一郎】
「……買ったのは俺だけどな」

彩芽は、狐の面を両手で抱えて上機嫌に歩く。

軽く鼻歌までうたっている事からしても、随分と気に入ったらしい。

【健一郎】
「それ、屋台で数百円のものだけど、そんなにいいのか?」

【彩芽】
「あのね。こういうのは、値段じゃないんだよ。心だよ、心」

【彩芽】
「一目見て、私のハートが打ち抜かれちゃったわけ。つまり、これには私のハートと同じだけの値段がつくよ」

【健一郎】
「じゃ、10円ってところか」

【彩芽】
「うわ。ひどーい」

【彩芽】
「健一郎って、そんな安い女が好きなんだ?」

【健一郎】
「非売品なら、値段なんて関係ないだろ」

【彩芽】
「そうだね。私の心は、誰にも売ってなんてあげないよ」

【彩芽】
「ま、このお面になら捧げてもいいけどね」

彩芽は恍惚とした表情で面を見ると、両腕で抱きしめる。

【彩芽】
「もう。もうこれ、本当お気に入り!」

感極まった声を出し、ぎゅうぎゅうと何度も抱きしめて。

ふ、っと彩芽は表情を戻した。そのまま、淡々と言う。

【彩芽】
「あ。お気に入りっていえばさー」

【彩芽】
「ここの近くに公園あるでしょ。そこに続く道に、大木とベンチがあるの知ってる?」

【健一郎】
「……いや」

【彩芽】
「知らないの? 勿体無いね」

【彩芽】
「あの場所、なんとなく雰囲気があって好きなんだよね。大木が力強いっていうか、落ち着くというか」

【彩芽】
「お姉ちゃんとも、よく行く場所なんだよ」

【健一郎】
「……ふーん」

【彩芽】
「あ。何その気のない返事。興味ゼロ?」

【健一郎】
「ほどほど。……ただ、お前って本当に姉の話が多いよな」

【健一郎】
「1日に1回は姉の事話しているんじゃないか?」

【彩芽】
「はっずれー。1日に5回は言ってるね!」

【健一郎】
「……開き直るなよ。多すぎだろ」

【彩芽】
「別にいーじゃん。悪口言ってるわけじゃないんだし」

【健一郎】
「……褒め言葉が多すぎるっていうのも、反応には困るけどな」

【彩芽】
「あ。なになに? 嫉妬?」

【彩芽】
「もっと俺の話もしてくれー、って言いたいわけ?」

【健一郎】
「そういうわけじゃない。ただ、話題選びを気をつけろって言ってるだけだ」

【彩芽】
「いいじゃん、そんなの。好きに話して、楽しければさ」

【彩芽】
「健一郎は、私が喋ってればなんでもいいでしょ? なんだって、『好きだ!』って思うでしょ?」

【健一郎】
「また、お前はそんな自意識過剰な発言を……」

しかし、相変わらず否定できないのが悔しいところだった。

なんだかんだで、ベタ惚れなんだという自覚は、ある。

【彩芽】
「あ。でも、健一郎には特に、お姉ちゃんの話をしてる気がするなー」

【健一郎】
「なんだよそれ。俺を洗脳しようって?」

【彩芽】
「そうそう。きっとそれ。無意識にそう思ってるんだろうね」

【彩芽】
「健一郎が、もっとお姉ちゃんに優しくしてくれたらいいな、って思ってるんだよ」

【健一郎】
「……お前、前に『無理に仲良くする必要はない』とか言ってなかったか?」

【彩芽】
「うん。そうだよ。だから、無理矢理じゃなくて、自然に洗脳しようとしてるわけ」

【健一郎】
「……なんだそれ」

呆れて溜め息を吐く。

すると、彩芽はそんな俺のひたいを、狐面で小突いた。

【彩芽】
「私なりの、優しさだよ」

;▲

【健一郎】
「もっと茜に優しく、か……」

渦巻く感情をごまかすように、唇を噛み締める。

俺は、何をやっているんだ。

優しくするどころか、酷い事をしてばかりだ。

これだから、なるべく顔を合わせないようにしていたというのに。喋らないようにしていたはずなのに。

ついついまた話しかけて、興味をもって、傷つけてしまった。最悪だ。

だから……今度こそ。

今から、もう、ハッキリさせよう。

彼女としっかり話をしよう。

;▲

意気込んで茜を探しにいくと、彼女はキッチンに立っていた。

数歩あるいて近付くと、気配に気がついたのか、茜が振り返る。

その手には、お玉が握られていた。

【茜】
「あ……。ごめん。まだご飯はできてないんだよ」

【茜】
「今日のお夕飯は、作りたてがいいかなって思ってたから」

【茜】
「下ごしらえして置いといただけだから、出来上がりにはもう少し時間がかかるよ」

ごめん。茜はもう一度そう言って、目尻を下げる。

俺は、それが信じられなかった。

ついさっき敵意を向けたばかりの俺に対して、まだ、料理を作ろうとする姿を見て、馬鹿だと思った。

本当に、俺は馬鹿だと思った。

【健一郎】
「悪かった。……ごめん」

言って、頭を下げる。

【茜】
「……健くん?」

【健一郎】
「俺が悪かった。お前が俺に向けていたのは、生半可な気持ちじゃなかったんだな。……その事に気がつかなくて、悪かった」

【健一郎】
「適当な気持ちで、ただ媚をうっているだけだと思って、悪かった。ごめん」

【健一郎】
「お前の気持ちは、よくわかった」

【健一郎】
「だから……本当に。本当に、お願いします」

【健一郎】
「もう……俺に、話しかけないでください」

【健一郎】
「俺に構わないでください。俺の事を気にしないでください」

【健一郎】
「頼むから……。もう、ほうっておいてくれ」

【健一郎】
「これ以上されても、俺はお前を傷つけるばかりだ。だから、頼む!」

最後は、半ば叫ぶような声になった。

本当に。頼むから、これ以上かかわらないでほしい。そう懇願した。

すると、茜は静かな声で問いかけてくる。

【茜】
「……健くんは、私にほうっておいてほしいんだ?」

【健一郎】
「ああ。そうだ。……もう、1人にさせてくれ」

【茜】
「……そう言うんだったら、君も私をほうっておいてよ」

【茜】
「私は、好き勝手に君の世話を焼くから。それをほうっておいてよ」

【健一郎】
「そんなの、できるわけないだろ。どうしても気になる」

【茜】
「そ? 目障りだったら、目をつぶってくれたらいいよ」

【茜】
「私が苦しそうでも、疲れていても、もしそのまま死んでしまいそうだとしても。ほうっておけばいいよ」

【健一郎】
「は……?」

【茜】
「だって、君にとって私は、関係ない人間でしょ?」

【茜】
「だったら、私に何が起きても、ほうっておけばいいよ」

【健一郎】
「……無理だ」

【茜】
「なんで?」

【茜】
「今この瞬間、君の知らないところで苦しんでいる人はたくさんいるよ?」

【茜】
「でも、君はその事をいちいち気にしてはいない。それと同じだよ」

【茜】
「そんな風に、気にしなければいいだけなんだよ?」

【健一郎】
「違う。お前は……目に見える」

【茜】
「その理屈でいったら、君は凄惨なニュースを見るたびに、報道されたところにいって手を伸ばすべきだよ」

【健一郎】
「それとも違う」

【茜】
「なにが違うの?」

【健一郎】
「それは、お前が……」

知り合いだから。友達だから。そんな風に言おうとして、やめる。

そんな事を言っても、どうせ他人だと返されそうだと思った。

だから、もっと説得力のある言葉はないか。探して、口に出す。

【健一郎】
「お前が……そう。あいつの、彩芽の姉だからだ!」

【健一郎】
「お前を苦しめるなと、彩芽から言われた。だから……」

【健一郎】
「あ」

――墓穴を掘った。

そう思った時には、遅かった。

俺の目にうつった茜は、にんまり、と。

イタズラが成功した子供のように、満足気に笑っていた。

【茜】
「そっか、そっか」

【茜】
「だったら、君もわかってくれるよね?」

【茜】
「私にとっての君は、大事な妹の、婚約者だった人なんだよ」

【茜】
「私も茜によく言われたよ。『たとえお姉ちゃんでも、健一郎を苦しめたら許さないから』って」

【茜】
「……だから、君と一緒。彩芽に怒られないように、私は君の傍にいるんだよ」

【茜】
「一緒なんだからさ。その気持ちがわからないなんて、言わないよね?」

【健一郎】
「そ、れは……っ」

【健一郎】
「……わからない!」

【健一郎】
「わかるわけがない! 俺とお前は違う。決定的に……違うんだ!」

【茜】
「違うって、なにが?」

【健一郎】
「俺は、お前に冷たくあたった。苛立って、酷い事を言った。ワガママを言って、八つ当たりもしていた、と思う」

【健一郎】
「だが、お前は俺に微笑みかける。優しくする。俺を生かそうとする。それが違う」

【健一郎】
「そんなのは、おかしいんだ!」

【健一郎】
「どうしてなんだ。どうしてお前は、俺を……こんなにクズな俺を、責めないんだ!?」

そうだ。茜は、俺を責めない。

彩芽が死んだ直後からそうだった。ずっと微笑みを向けてきた。

俺を気遣って、優しい言葉ばかりを言って、心配そうな目をしていた。

それが嫌でたまらなかった。だから、その顔を見るたびに吐き気がした。

あれは、そんな顔を向けられている場違いな俺に対しての嫌悪感だ。

【健一郎】
「俺は、お前にそんな優しさを向けられる価値のない人間なんだよ!」

【健一郎】
「優しくするなよ。もっと責めてくれよ!」

【茜】
「そう言われても……責めるなんて、できないよ」

【茜】
「健くんは、何にも悪くないんだから」

【茜】
「だって、彩芽が死んだのは……」

【健一郎】
「違う。それが、間違っているんだ!」

『彼女が死んだのは、ストーカーのせいだよ』

『結婚できないからって、1人で勝手に絶望して、心中をはかったストーカーが悪かったんだよ』

そう言ったのが誰だったのか、もはや覚えてはいない。

彩芽が死んだ時、周りの人間はみんな、俺を可哀想だと言った。

目の前で婚約者を失った。そのうえ、憎しみを向ける対象もその場で自殺してしまった。

可哀想だ。だから、君のせいじゃない。君は悪くない。

多くの人間がそう言って、俺を慰めた。

……真実を知らずに、そう言った。

【健一郎】
「彩芽は、俺のせいで死んだんだ。俺が、殺した」

【茜】
「それは……どういう事?」

【健一郎】
「……ストーカーは、心中を狙って彩芽を刺したわけじゃない」

【健一郎】
「彩芽は、俺を庇って刺されたんだ。とばっちりを受けただけなんだ」

【健一郎】
「ストーカーが狙っていたのは、俺だった」

【健一郎】
「本当なら、俺がストーカーに刺されて死ぬはずだったんだ」

【茜】
「え?」

【茜】
「じゃあ、そのストーカーは……結婚できない腹いせに、健くんを殺そうとしていたって事?」

【健一郎】
「それも違う。俺を殺して、彩芽と結婚する可能性を得ようとしていたんだ」

【健一郎】
「……あの時。ストーカーは式場から出てきた俺と彩芽を見て、俺たちがもう結婚したと思ったんだろう」

【健一郎】
「通常なら、離婚が廃止されたこの国で、一度既婚者となった相手と結婚する事はできない」

【健一郎】
「だが……1つだけ、再婚を許される方法がある」

【茜】
「あ……! それって、今の私みたいに……」

【健一郎】
「ああ。そいつは、過去の事例か何かを知っていたんだろうな」

【健一郎】
「俺を殺せば、彩芽の婚姻が解消されると考えた。そうして包丁をもって、俺に襲いかかってきたんだ」

【茜】
「それで、彩芽が庇って刺された……?」

【健一郎】
「ああ。そうだ」

【健一郎】
「だから、本当は俺が死ぬはずだったんだ! 俺が、彩芽のかわりに生き延びてしまったんだ」

【健一郎】
「……ほら。俺を責めたくなってきただろ? なぁ?」

【茜】
「……責めないよ。健くんはきっかけだったかもしれないけれど、それは、健くんのせいじゃないからね」

【健一郎】
「きっかけ? いいや、それも違う。それだけじゃない」

【健一郎】
「俺は、この事を隠していたんだぞ!? 本当の事を、お前にだって言わずにいたんだ」

警察には話をした。だが、まともに取り合ってもらえなかった。

あのストーカーは、無理心中をはかった。そういう事にした方が、あちらとしても都合が良かったんだろう。

真似をして、同じような事例が頻発する事を危ぶんだのかもしれない。

とにかく、俺はそんな警察にのせられるがままに口をつぐんだ。

【健一郎】
「言わなければ、可哀想だと思われたからだ!」

【健一郎】
「この事を言ったら、責められると思ったからだ」

【健一郎】
「お前が死ねば良かった。そう、言われるかもしれないと考えたからだ」

【健一郎】
「だから隠した。可哀想な被害者のフリを続けた。そうしたら……周りは、本当に責めなかった」

【健一郎】
「姉妹であるお前も、責めるどころか慰めようとするばかりだった」

同棲がはじまってからもそうだが、その前からも、茜は俺を気遣ってばかりだった。

茜は新婚生活をおくる時だったというのに、毎日毎日、俺のところに顔を出した。

そうして、他愛もない話をした。笑いかけてきた。心配してくれた。俺はそれに甘えた。

【健一郎】
「その事が、今度は辛かった」

【健一郎】
「自分から都合のいいように事実を捻じ曲げておきながら、一方で、その事に罪悪感をおぼえた。責められたくて、たまらなかった」

【健一郎】
「こんなに卑怯な俺は、生きている価値がないと思った」

【健一郎】
「だから、彩芽と同じように……この国の結婚制度によって、死にたかった」

【健一郎】
「それが、彩芽への償いだと思った」

【健一郎】
「それなのに、お前はそれすらもさせてくれない!」

【健一郎】
「だから……なぁ。頼む。蔑めよ。責めろよ。もう知らないと、放り出してくれよ」

【健一郎】
「……なぁ!」

俺が縋るような目でみるが、茜は何も言わなかった。

そうして、数十秒。いや、数分。

無音の時をおいてから、ぽつりと、つぶやいた。

【茜】
「……そっか」

【茜】
「だったら尚更、私と結婚してくれなくちゃ困るよ」

【健一郎】
「え……?」

【茜】
「生きてくれなくちゃ、だめだよ」

【茜】
「だって、彩芽は君を庇ったんでしょ。だったら、その命をみすみす捨てるなんて酷いよ」

【健一郎】
「それは……そうかも、しれないが」

【健一郎】
「だが、こんな俺には、生きる資格なんてないはずだ」

【茜】
「違う違う。君にないのは、死ぬ資格なんだって」

【茜】
「というよりも、誰にだってないと思うけどね。そんな資格なんて、ね」

【茜】
「まぁ……ちょっと、安心したよ」

【健一郎】
「安心、だって?」

【茜】
「そ。健くん。君は、死ぬ気があるわけじゃなかったんだね」

【茜】
「ただ、生きる気がなかっただけなんだ。そんな中途半端な気持ちだったんだね」

だから良かった。そう言って、茜は胸に手をあてる。

【茜】
「私は君を責める気はないよ。他人を責めるとか、そういうのしたくないから。正直言って、苦手」

【茜】
「でも、君は自分自身を責めるのが得意みたいだからさ。どうしても責められたいんだったら、生きなきゃだめだよ」

【茜】
「生きて、自分で自分を責めつづけてよ」

【健一郎】
「自分を責める……か。たしかに、それはあるかもしれないが……」

【健一郎】
「そのために、やっぱりお前を利用しろって言うのか?」

【茜】
「そうだよ」

【茜】
「君が彩芽の死を見て苦しんだように。私だって……もう、近くで誰かが死ぬのは嫌なんだよ」

【健一郎】
「……そう、か。そうだよな」

【健一郎】
「お前は、妹じゃなくて夫も失っているんだったな。……俺より、悲しかったんだよな」

【健一郎】
「それなのに、俺は自分の事ばかりだった。本当に、悪かった」

【茜】
「あ。あー……それは、ちょっと違うんだけど。ま、いっか」

【健一郎】
「……?」

【茜】
「とにかく。君の口ぶりからすると、考えはかわってくれたのかな」

【茜】
「君は私と結婚する。……そういう事で、いいんだね?」

【健一郎】
「……ああ」

本当は、まだ少し戸惑いがある。

好きというわけじゃない相手との結婚だ。

茜自身からどんなに平気だと言われても、利用する形になる事への抵抗は消えない。

それでも、その罪悪感も含めて、俺は背負っていかなければならないのかと思う。

【茜】
「よーし。それじゃあ、改めて」

【茜】
「同棲生活、再開だね!」

茜はそう明るい声で言って、さっそくとばかりに、夕食の準備に戻る。

俺も、それを見て彼女の傍に近付く。

俺はあまり家事をした事がないが、これから、もっとできるようになろう。

まずは、夕食作りの手伝いからだ。

;▲—————

【健一郎】
「風呂掃除終わったぞ」

【茜】
「うん。こっちも掃除終わり」

【茜】
「狐面、ピカピカになったよ!」

【健一郎】
「さっきからごそごそやってると思ったら……それだったのか」

【茜】
「うん。玄関に飾っておこうと思ってね」

【茜】
「そこなら毎日目にするから、埃かぶったりもしないと思う」

【健一郎】
「そうか。まぁ……掃除、お疲れ」

【茜】
「うん。お疲れ様ー」

茜と協力して生活するようになって、約2週間が過ぎた。

あの日以来、彩芽が死んだ時の悪夢を見る事はなくなった。

家事の分担はおおまかに決めて、同じくらいの負担になるようにしたので、茜の目の下の隈もなくなった。

このままならば、友達としての一定の距離をおいて、平穏な同棲――結婚生活もおくる事ができるだろう。

そう、思ってしまえばいいのだが。

実のところ、気になる事があった。

【健一郎】
「なぁ。映画借りてきたから、このあと一緒に観」

【茜】
「あー、眠くなっちゃった! おやすみ!」

俺の言葉を最後まで聞きもせず、茜は自室の方へとひっこんだ。

そそくさと消えてしまったその背中を見て、思った。

またか、と。

ここ数日の茜は、こうしてさっさと話を切り上げてしまう事が多い。

俺が茜と親密になろうとすればするほど、こんな風に、俺との時間を減らそうとしているような気がする。

別に、親密にといってもやましい事はない。

ただ日常会話をしたり、一緒にゲームで遊ぶなどといった程度の事だ。友達感覚だ。

それなのに避けられる。

完全に冷たくされているわけではないが、一線を引かれていると感じる。

俺が生きる気になったから、もうボランティアはおしまい、という事なのだろうか。

それにしては、露骨すぎる態度だと思うのだが……。

【健一郎】
「……」

一体、なんなんだ。

そう思って茜の部屋をにらんでみるが、やはり、前とは違う。

彼女がその扉を開けて、俺へまとわりつく事はなかった。

;▲

まだ、俺の気のせいかもしれない。

そう思い、今日は早起きをして朝ごはんを先に作っておく事にした。

といっても、トーストに、目玉焼きとベーコンを用意しただけのものだが。

簡単とはいえ、食べる間ぐらいは会話ができるだろう。

と、考えたのだが……。

【茜】
「ご飯作ってくれてありがと」

【茜】
「でも、ごめん。今日、朝からちょっと用事があってさ」

【茜】
「せっかくだけど、外に持って行って食べるね。食器はおいといてくれたら、後でちゃんと洗うから」

【茜】
「じゃあ、行ってきます」

そんな風に多少早口で言ったかと思うと、茜は制服に着替えてすぐに出て行ってしまった。

;▲
【健一郎】
「うーん……」

放課後。頬杖をつきながら、ぼんやりと茜の態度について考える。

しかし、まるで心当たりがなかった。

いや。そもそも、俺は茜の事をあまり知らないんだ。

学年が同じだが、同じクラスになった事はないので、もともとは顔を知っていた程度だった。

彩芽がいた頃はひたすら茜についての話を聞かされていたものの、それも1年半前になくなった。

その間の茜の事は、ただ俺の家に毎日訪ねてきていた事しかわからない。

……そうだ。同じ女性という視点から、小百合が何かわかる事はないだろうか。

そう思ってメールを送ってみると、すぐに返信がきた。

『そんな事、わかるはずがない』

もっともだ。

ついでに、

『生きると決めたきみの事も、ワタシはわからない』

という辛辣な言葉付きだった。

まぁ、これは仕方がない。

少しとはいえあいつを巻き込んだ挙句、あっさりと俺が考えを変えてしまったのだから。

今度、何か埋め合わせでもしておこう。

そう結論を出して、再び茜の事を考えようとすると、

【???】
「……ひ、久しぶり」

そんな声が聞こえた。

振り返ると、見覚えのある男が立っている。

【健一郎】
「ああ。直樹か。久しぶり。……だったか?」

【直樹】
「そうだぞ。お前がずっと部活に顔を出さないから、その……大体、1年半ぶりくらいじゃないか」

【健一郎】
「ふーん……。そうだったか」

【健一郎】
「で? そんな久しぶりに、何の用だよ」

【直樹】
「それこそ、部活の話だ。美術室の君の荷物、そろそろ片付けた方がいいんじゃないかと」

【健一郎】
「片付け、か……」

今はもう3年の冬だ。

この学園では3年生は夏には部活動が終わることになっているから、本来ならとっくに片づけを終えていなければならないだろう。

そういえば、顧問の先生からも何度か注意された気がする。

当時の俺は、避けられない美術の授業以外は絶対に美術室に入りたくなくて、無視していたのだが。

【健一郎】
「まさか、今更そんな話されるとは思わなかったな」

【直樹】
「そ、それは仕方ないだろ。お前がずっと、怖い顔してたから悪いんだぞ!」

【直樹】
「その……。彼女がいなくなってから、お前は雰囲気が変わって……」

【直樹】
「もともと暗い方だったが、しゃべると呪われそうなぐらいになってて、話しかけていい雰囲気じゃなかったんだ!」

【健一郎】
「お前、好き勝手言ってくれるじゃねぇか」

【直樹】
「ひぃぃっ!」

【健一郎】
「……まぁ、否定はしないけどな」

【健一郎】
「そう言うって事は、今の俺は違うのか?」

【直樹】
「ああ。ちょっと雰囲気が変わった気がする」

【直樹】
「だから俺も数日様子を見て、今日、なんとか話しかける事ができたんだぞ」

【健一郎】
「……そうか」

それはきっと、いや、確実に茜のおかげなんだろう。

しみじみとそう思いつつ、俺は立ち上がる。

【健一郎】
「わかった。そんな勇気を出してくれたんなら、俺もちゃんと片付けしないとな」

【直樹】
「ああ。それがいいな」

【直樹】
「俺もちょっと用事があるから、一緒に行くぞ」

そう言って俺のあとをついてくる直樹は、きっと気遣ってくれているんだろう。

美術室は――あの場所は、よく、彩芽が顔を出した場所なのだから。

;▲回想

【彩芽】
「ちわーっす。見学させてもらってまーす」

【健一郎】
「……お前、また来たのか」

俺が美術室に入ると、そこにはパレットを手に持ち、キャンバスの前に座った彩芽がいた。

呆れ顔の俺に対して、彼女は陽気に笑う。

【彩芽】
「そ。来ちゃった」

【健一郎】
「その服は?」

【彩芽】
「お姉ちゃんの。着ちゃった」

【健一郎】
「お前なぁ……。中等部には、中等部の部活があるだろうが」

【健一郎】
「というか、見学とか言いつつパレット持って絵の具出してるのはなんでだよ」

【彩芽】
「まぁまぁ。そこは固いこと言わないでよ」

【彩芽】
「直樹さんが、貸してくれたんだからさ」

【健一郎】
「……おい、直樹。何やってんだよ。こいつ、今は一旦別の部活ってことになるんだぞ」

【直樹】
「ああ。でも、まぁいいかなって」

【健一郎】
「よくねぇよ」

彩芽が今所属しているのは、中等部にある美術部だ。

俺と直樹は去年そこを出て、この高等部の美術部にうつった。

まぁ、もともと2年はおらず、3年の先輩が部活に来なくなった現状では、俺と直樹しか部員がいないので、自由ではあるのだが。

かといって、彩芽がこうして入り浸るのはどうかと思う。

【健一郎】
「出ていけよ」

【彩芽】
「嫌だね。私を追い出したかったら、戦って出すんだね」

【健一郎】
「……何言ってんだ、お前」

【彩芽】
「それはこっちのセリフだよ。戦ってくれないわけ?」

【健一郎】
「お前は戦いたいのか」

【彩芽】
「そ。すごく戦いたい」

【彩芽】
「私、絵を描くのは好きなんだけどさ。そこが不満なんだよ」

【彩芽】
「美術部って、直接対決しないでしょ。コンテストで競い合うといえばそうなんだけど、なんか違うんだよね」

【彩芽】
「私としてはもっとこう、血き肉躍るような激しい戦いがしたいわけ」

【健一郎】
「……お前は、美術部に何を求めているんだ」

俺は呆れまじりにつぶやく。

しかし彩芽はそれを無視して、言葉を続けた。

【彩芽】
「同じようにさ。私、お姉ちゃんの事も不満なわけ」

【彩芽】
「お姉ちゃんも、戦わないんだよね。戦うフリはしてくれるけど、いっつも逃げちゃう」

【彩芽】
「私は勝ちを譲られるんだよ」

【彩芽】
「譲られた勝ちなんて、負けるより屈辱的。悔しい。最悪な気分」

【彩芽】
「だから、そういう時のお姉ちゃんは嫌い」

【健一郎】
「……珍しいな」

【彩芽】
「ん? なにが?」

【健一郎】
「いや、珍しいどころか、初めてだ」

【健一郎】
「お前でも、姉にたいしてそんな風に言うんだな」

【彩芽】
「あー、うん。ちょっと、今のは失言だったかな。悪口だもんね、これ」

【彩芽】
「それこそ、ついさっき勝負挑んだら逃げられちゃったからさ。イライラしてたのかも」

ごめん、と。俺に向けたものか、それとも茜に向けたものかわからない謝罪を口にして、彩芽はまだ続ける。

【彩芽】
「今のは私の言い方が悪かった。でも、私だってお姉ちゃんのここが嫌だって思うところはあるよ」

【健一郎】
「姉が大好きじゃなかったのか」

【彩芽】
「それとこれとは別だよ」

【彩芽】
「好きだからその相手の何もかもが好きだなんて、盲目すぎでしょ。なんか宗教っぽくて怖い」

【彩芽】
「嫌いなところもあるけど、それでも好き。そういう方が、私は理解できる」

【健一郎】
「まぁ、たしかに」

俺はうなずいて、彩芽をにらむ。

【健一郎】
「俺も、姉の事ばかり話すお前は嫌いだ」

そうして俺が言うと、彩芽も俺をにらみ返した。

【彩芽】
「そ。私も健一郎のそういうところ、嫌い」

そのまま、じっと互いに視線を逸らさず睨み続けて……。

【直樹】
「お、おい、2人とも。喧嘩は……」

【彩芽】
「あっはは! 直樹さん、慌てすぎ」

【健一郎】
「そうそう。それでも好き、って話なんだから本気じゃないって」

慌てだした直樹を見て、2人で笑った。

;▲

【直樹】
「大丈夫か……?」

そんな事を思い出していたからだろう。

ふと気がつくと、直樹が困ったように俺を見ていた。

【直樹】
「なぁ。やっぱり、美術室行くのやめるか?」

【健一郎】
「なんでだよ。片付けしないと他のやつが困るんだろ」

【直樹】
「だが、お前があまり部活の事を思い出したくないって言うなら、俺が片付けてもいいんだぞ」

眉を下げて言うその顔が、一瞬、見慣れたもののように感じた。

最近こいつの顔なんて見ていないはずなのに、と不思議に思ったが、なんて事はない。

俺を気遣うその表情が、茜と同じだからそう感じただけだった。

そうして茜の事を思い出すと、

【健一郎】
「そんな気にすんなよ」

【健一郎】
「俺は、その……新しい結婚相手、見つかったから」

そんな言葉が口から出た。

結婚相手。改めて自分の口で言ったその言葉に、じわじわと胸が温まっていくのを感じる。

【直樹】
「なっ。結婚相手って……人間か!?」

【健一郎】
「……おい。お前、俺を馬鹿にしてんのか?」

【直樹】
「あっ、いや、そうじゃなくって。ちょっと前までのお前は、それこそ、その、墓と結婚するって言い出しそうな雰囲気をしていたから……」

【健一郎】
「なんだよそれ」

呆れた風に返してはみたものの、内心で少し焦る。

別に、学校で「処刑されたい」と公言していたわけじゃないんだが。

クラスの違う直樹にまでそう感じさせる程、俺は陰鬱としていたのか。

【健一郎】
「ちゃんとした人間だよ。……というか、茜だ。お前も知ってるだろ」

【直樹】
「えっ。茜さんって……あの、茜さん? 俺と同じクラスの?」

【健一郎】
「ああ、その茜だ」

【直樹】
「……そっか。たしかに彼女は、俺が遠目から見ている間にも、お前に積極的に話しかけてたな」

【健一郎】
「そうそう。結果として、そのまま押し切られたようなもんさ」

【健一郎】
「俺を死なせないために、ボランティアで結婚してくれるってさ」

俺が言うと、直樹は少し複雑そうな顔をした。

彩芽と俺の付き合いを身近に見ていただけに、さすがに思うところがあるんだろう。

それにくわえてボランティアでの結婚だなんて、戸惑っても仕方がない。

それでも、直樹はすぐに表情をゆるめた。

【直樹】
「ボランティアか。……でもまぁ、当人たちがそれでいいって言うなら、俺が口出す事でもないしなぁ」

【直樹】
「茜さんとなら、きっといい結婚生活になるだろうな。おめでとう」

【健一郎】
「ああ、ありがとう」

【健一郎】
「……まぁ、まだ、彩芽の事を完全に忘れられるわけじゃねぇけど」

【健一郎】
「茜となら、前を向いていけそうだって思ってる」

【直樹】
「そうか。本当に良かったな」

うんうん、と直樹はうなずく。

それからすぐに目を伏せた。

【直樹】
「そんなに堂々と言えるんだから、いいよなぁ。羨ましいなぁ……」

【健一郎】
「羨ましい? お前って長く付き合ってる恋人がいたんじゃないのか?」

たしか、2年前までこいつは幼馴染……というよりも、ほぼ許嫁といっていい相手がいたはずだ。

あまりその彼女と話した事はないが、何度か顔は見た事がある。

妙にほわほわとしていて、裏表のなさそうな人だとは感じた。

この2年のうちにその彼女からフられでもしたのかと思って訊けば、直樹は目を見開いた。

【直樹】
「……フ、フられる!? そうか! その可能性もあるのか!」

【直樹】
「あ、あああっ。もしそんな事になったら、どうすればいいんだ!? 俺は! その瞬間に死んじゃう!」

【健一郎】
「お、おい。落ち着けって。その反応からすると、まだフられてないって事なんだろ?」

【直樹】
「まだ!? まだだって……!? や、やっぱり俺は結婚式の前にフられてしまう可能性が……っ!」

【健一郎】
「あー、ないない。ほんと、落ち着けって」

【健一郎】
「フられてないなら、何が不満なんだよ?」

【直樹】
「不満……じゃなくて、不安なんだ」

【健一郎】
「結婚生活が、か?」

【直樹】
「そんなわけないだろ! すみれとの結婚生活なんて最高に決まってる!」

【直樹】
「そうじゃなくて。結婚式が不安すぎて、最近はずっと悪夢ばかりみるんだ……」

【健一郎】
「はぁ? 結婚式が、不安?」

【直樹】
「だって、誓いの儀式があるんだぞ!?」

【直樹】
「それをして、鐘が鳴れば婚姻成立だ。……けどなぁ」

【直樹】
「それは逆に、もし鳴らなかったらダメって事なんだぞ!?」

【直樹】
「そのまま監獄に連れて行かれるんだぞ!? 怖すぎるだろ!」

【健一郎】
「……いやいや、何言ってんだお前。そんな事例見たことねぇよ」

たしかに、そんな噂は耳にした事がある。

だが、実際に鐘の音で騒ぎになったのは2年前のあれぐらいしか知らない。

あの時の事だって、本来は結婚できない年齢の子が割り込んだから問題になっただけだ。

国から示された規定に沿って結婚しようとした人間が、鐘の音を鳴らせなかったという事例は知らない。

【直樹】
「事例がなくっても、俺がその初めての人になるかもしれないだろ!」

【直樹】
「しかも、そんな事になったら逃げる事もできないんだぞ」

【直樹】
「大勢の前で堂々とキスをして、もし鐘の音が鳴らなかったら……あぁっ! いやだあぁっ!」

【健一郎】
「だから、大丈夫だって」

騒ぐ直樹をなだめつつ、そういえば、と思い出す。

大勢の前でキス。言われてみれば、誓いの儀式とはそういうものなんだった。

それが儀式の一環である以上、結婚するうえでそのキスは必須事項だ。

いくらその後は友達感覚でいいとはいっても、そこだけは欠かせない。

もしかして、茜が俺を避けるようになったのはそれが原因だろうか。

改めて結婚を意識したら、俺とのキスを想像した。その結果、とてつもない嫌悪感を抱いた、とか。

……いや。茜は以前にも好きでもない相手と結婚をしている。今更か。

やはり、茜の態度についてはわからない。他に知る方法は……。

【健一郎】
「なぁ。お前って、何か茜について知ってる事はないか?」

【直樹】
「あっ、鐘について!? そんなの俺が聞きたいぞ!」

【健一郎】
「……あかねについて、だ」

【直樹】
「あ、あぁ、そうか。茜さんな。彼女について知ってる事は……とにかく親切って事ぐらいか」

【直樹】
「すみれも親切なんだが、すみれのそれは結構限定的なんだよな。自分の手のとどく範囲って感じだ」

【直樹】
「それと比べると、茜さんの方はすごいな。ひたすら手を広げて困っている人を助けていく感じだ」

【直樹】
「あとは基本的に、いつも笑顔だな。あ、すみれの笑顔の方が癒し度としては上なんだけどな」

【健一郎】
「そんな事は知ってるし、ノロケはよそでやってくれ」

【健一郎】
「もっと別の……たとえば、隠し事とか知らないか?」

【直樹】
「いや、知らないな。隠し事とかって、もっと親しい相手にいうだろ。親友とか」

【健一郎】
「じゃあ、その親友の事は知らないか?」

【直樹】
「茜さんの親友……か。一応、クラスで仲良さそうな人は知っているが……」

【健一郎】
「じゃあ、そいつの名前を教え」

【直樹】
「い、いやいやいや! それは言えない! 言ったら気絶する! 怖い!」

【直樹】
「俺が言えるのは……『中庭のベンチのオレンジ』だ」

【健一郎】
「はぁ? なんだそれ」

【直樹】
「悪いが、これ以上は詮索しないでくれ。俺にはこれが精一杯なんだ」

【直樹】
「それと。今、思ったんだが……」

【健一郎】
「なんだよ?」

【直樹】
「俺も、すみれに何か隠し事されてたらどうしよう!? 実は男だったとか! 言われたら!」

【健一郎】
「いや、ねぇよ」

;▲

片付けを終えて、俺は中庭を歩く。

中庭のベンチのオレンジ。とりあえず、その言葉をたよりにしてきてみたが、そもそもベンチなどあっただろうか。

そうして半信半疑で周囲を見回し続けていると、10分ほどして、ようやくそれらしきベンチを見つけた。

木々で隠されていて、校舎の入口からは丁度あまり目につきにくい場所だ。隠れスポット的なところなのだろう。

しかし、そんな場所にあるベンチには先客がいた。

オレンジのパーカーを着ているところからすると、この人が直樹の言っていた人だろうか。

【健一郎】
「なぁ、そこの」

【オレンジさん】
「遅いですよ。貴方が思い出に浸りたいというから毎日ここで待っているというのに、一体何時間待たせるつもりですか」

【健一郎】
「え?」

【オレンジさん】
「……」

【オレンジさん】
「……これは失礼しました。人違いです。今の言葉は貴方に言ったものではありませんから、ご心配なく」

【健一郎】
「……そうか」

【オレンジさん】
「はい。申し訳ありませんでした」

【オレンジさん】
「それで、何のご用でしょうか?」

数回咳払いをしてから、オレンジさんが話しかけてくる。

制服や声で女性なのはわかるが、フードで顔が見えないので誰かまでは特定できない。

まぁ、そんな事はどうでもいい。今は茜の事だ。

【健一郎】
「訊きたい事があるんだが」

【オレンジさん】
「茜の事ですか?」

【健一郎】
「……わかるのか?」

【オレンジさん】
「えぇ。貴方の事は彼女から散々聞きましたからね」

【オレンジさん】
「何度も彼女から親切の押し売りを受けた結果、最近になって婚約なさったとか」

【オレンジさん】
「おめでとうございます」

【健一郎】
「……ありがとう」

【健一郎】
「だが、親切の押し売り、なんて言い方はやめろよ。不快だ」

【オレンジさん】
「おや。彼女からの話を聞く限りだと、貴方もそういう風に評する人間だと思いましたが」

【健一郎】
「それはそうなんだが……」

【オレンジさん】
「他人が彼女を悪く言うのは不愉快、と。なるほどなるほど」

オレンジさんは1人で納得して、「それは失礼しました」と続ける。

しかしそこに感情がこもっているとは思えず、形だけの謝罪だと感じた。

【健一郎】
「……アンタは、茜の親友なのか?」

【オレンジさん】
「さて。そういうものはハッキリ目に見えるものではありませんから。断言はできませんね」

【オレンジさん】
「ただ、彼女は私を気に入っているようですし、私としても彼女には好感を抱いています」

【健一郎】
「そうか」

【オレンジさん】
「それがなにか?」

【健一郎】
「いや。親友なら茜には悪いんだが……俺は、お前とはそこまで仲良くできる気がしないと思った」

【オレンジさん】
「でしょうね。私と貴方は、オブラートに包まずものを言うという点で似ているようですから」

【オレンジさん】
「私も、仲良くできるとは思いません」

【健一郎】
「なるほど」

似ている、というのは納得できる気がする。おそらく同族嫌悪なんだろう。

【健一郎】
「俺といいアンタといい、あえてキツい言葉をいう人間の傍にいようとするなんて、茜は趣味が悪いな」

【オレンジさん】
「それには同感です」

【オレンジさん】
「……それで、貴方は茜の何について訊きたいんですか?」

【健一郎】
「最近、俺は茜に避けられている気がするんだが、その理由について何か心当たりはないか?」

【オレンジさん】
「ありますよ」

【オレンジさん】
「……実は、彼女は猫が苦手なんです」

【健一郎】
「……は? 猫?」

【オレンジさん】
「猫アレルギーなので、容易に近付くと発疹などが出てしまって大変なようです。……とても、かわいそうな話ですね」

【健一郎】
「あー……。そういえば、そんな事を聞いた覚えがあるな」

それもたしか、彩芽情報だ。

猫と触れ合えないなんてかわいそうだから、猫耳をプレゼントした、とか話していた気がする。

【健一郎】
「茜のアレルギーはわかった」

【健一郎】
「だが、それと俺が避けられている事に何の関係があるんだ?」

【オレンジさん】
「つまり、貴方が猫だから避けられているんじゃないですか?」

【健一郎】
「……アンタ、俺をからかってるのか?」

【オレンジさん】
「はい、その通りです」

【オレンジさん】
「真面目に答える必要性を感じませんから」

【オレンジさん】
「気になるのなら、本人に訊くべきです」

【オレンジさん】
「避けられているというのなら、逃さないように捕まえれば良いじゃないですか」

【健一郎】
「力づくでというのは、どうもな……」

以前押し倒した時はケロリとしていたが、だからといって何度もあんな事をしたいわけじゃない。

【健一郎】
「今は、もう少し穏便な方法がいいんだ」

【オレンジさん】
「穏便に、逃がさなければいいんですね」

【健一郎】
「ああ」

【オレンジさん】
「わかりました。任せてください」

俺がうなずくと、オレンジさんは背を向けて携帯端末を弄りはじめた。

そうして、少ししてから俺の方を向く。

【オレンジさん】
「茜にメールしました。今は茶道室にいるそうですから、すぐに来るでしょう」

【オレンジさん】
「私が彼女を逃しませんから、どうぞしっかりと話し合ってください」

;▲

【茜】
「椿! 急用って、なに? 何かあったの?」

そうして、オレンジさんがメールをしてから数分後。息を乱しながら、茜が現れた。

彼女はその場で少し呼吸を整えながら、俺とオレンジさんを交互に見て小首をかしげる。

【茜】
「って、あれ。……健くん? どうして2人が一緒にいるの? お友達?」

【オレンジさん】
「いえ。ついさっきまともに会話したばかりの赤の他人です」

【オレンジさん】
「ただ、彼が貴方に訊きたい事があるらしいので、私が代わりに呼びました」

【茜】
「お話? なになに? いい話? 悪い話?」

【健一郎】
「良いとか悪いじゃなくて、単純な疑問だ」

【健一郎】
「……お前、最近俺を避けてないか?」

俺が言うと、茜は一瞬息を呑んだ。

それから、ゆっくりと。もう一度、小首をかしげる。

【茜】
「えっ? どうして?」

【健一郎】
「以前に比べて、お前と話す時間が減った気がする」

【茜】
「……うーん。そうかな?」

【健一郎】
「ああ。あからさまな程に減った」

【茜】
「別に、避けているつもりはなかったんだけど……」

【オレンジさん】
「では、そう思われるような理由はあったという事ですね」

【オレンジさん】
「それは何なんですか?」

【茜】
「あまり、言いたくないんだけど……」

【オレンジさん】
「言ってください。この場では、ごまかさない方が良いと思いますよ」

俺が口を挟むまでもなく、オレンジさんが茜を威圧する。

すると、茜はうんうん唸った末に、うなずいた。

【茜】
「……わかったよ」

【茜】
「あのね。実は……」

それでもまだ言いにくそうにして、唇をなめる。

そうして一度つばを飲み込んでから、口を開いた。

【茜】
「実は……パーティの準備してて、忙しかったんだよね」

【健一郎】
「……は? パーティ?」

思わず目を見開いた俺に、茜はうなずく。

【茜】
「うん。クリスマスまであと5日でしょ。だから、パーっとパーティやりたいなって」

【茜】
「会場の準備とか、いろいろ忙しくって」

【健一郎】
「だったら、そう言えばいいだろ」

【茜】
「そうなんだけど……。健くんは、まだそんなにいろんな人と騒ぐ気分じゃないかな、って思って」

【茜】
「言い出したら強制的に参加させちゃうみたいで、ちょっと迷ってたんだよね」

【健一郎】
「強制的に結婚させようとしてたくせに、今更何言ってんだよ」

【茜】
「あ。言われてみれば、そだね」

【オレンジさん】
「それで。貴方はそのパーティの準備をするために必死になっていて、彼とあまり話をする時間がなかった、と」

【オレンジさん】
「……そういう事で良いんですね?」

【茜】
「あー……うん」

【オレンジさん】
「……そうですか。思った以上に、くだらない答えでしたね」

【健一郎】
「だな」

俺が結婚を了承した日から態度が少しずつ変わっていった事を思うに、その日急にパーティをしたくなったんだろう。

元からパーティをしたかったが、俺の事が気がかりで今年は中止しようとしていた、という方が正しいかもしれない。

そこで急に俺との事が解決したから、パーティの計画を再びもってきて忙しくなったのか。

理解はできるが、大分いきあたりばったりな印象を受ける。

【健一郎】
「クリスマスパーティなんて、そんなにやる意味あるか?」

【健一郎】
「せいぜい、ケーキと肉食べればそれでいいだろ」

【オレンジさん】
「プレゼントだけ貰えば満足ですね」

【茜】
「えーっ。ちょっと、2人とも酷いよ! パーティはいいでしょ。いろんな事忘れて、大騒ぎだよ!」

【オレンジさん】
「残念ですが、私は騒がしいのはあまり好きではないので」

【健一郎】
「あー。俺もそうだな」

【茜】
「またひどーい!」

【茜】
「うーん……さっきから、2人とも仲いいんだね」

【茜】
「私が知らないところで、ドキドキワクワクの何かがあったの!? 意気投合しちゃった感じなの!?」

【オレンジさん】
「そう思うなら、眼科をおすすめします」

【健一郎】
「俺は耳鼻科をすすめる」

【茜】
「またまた、息ピッタリのくせにー。照れなくっていいんだよ」

【茜】
「仲間はずれはちょっと悔しいけど、友達同士が仲良くしてるのは見ていて嬉しいからね!」

【健一郎】
「ああ。友達といえば、そのパーティにはどれぐらいの人を呼ぶつもりなんだ?」

【茜】
「うーん。クラスメイトとか、知り合いの人を片っ端から、ってところかな」

【茜】
「みんな今年で結婚だからさ。もう結婚している人はともかく、まだの人はいろいろ思い悩んじゃう場合もあると思うんだよね」

【オレンジさん】
「ああ。この時期に今の恋人を捨てて新しい人を探す、という人はいそうですね」

【健一郎】
「なるほど。クリスマスイブに1人の人間を見つけて、狙いをつけておくって事か」

【茜】
「違うよ! 恋人時代最後のクリスマスって事だよ!」

【茜】
「それを2人きりで過ごすのもいいけど、あえて他の人と一緒にみんなで盛り上がるのもいいんじゃないかな、って」

【茜】
「私がしたいのは、そういうパーティなんだよ!」

【健一郎】
「恋人時代最後、か……」

【オレンジさん】
「それで考えると、既婚者の私は除外ですか?」

【茜】
「ううん、そんな事ないよ! 当然、参加は自由だよ。ただ、雰囲気としてはそんな感じってだけ」

【茜】
「恋人がいなくて焦ってる人とかの出会いの場になっても嬉しい。既婚者がハメを外す場になっても嬉しい」

【茜】
「とにかく、私はみんなで騒ぎたくて準備中なわけ」

【オレンジさん】
「……貴方の考えはわかりました」

【オレンジさん】
「それで。茜はこう言っていますが、貴方は納得できましたか?」

【健一郎】
「ああ、まぁな」

蓋を開けてみれば大した事のない話だったが、そうわかって安心した。

【健一郎】
「わざわざ立ち会ってもらって、悪かったな」

【茜】
「うん。巻き込んじゃってごめんね」

【茜】
「じゃ、私はそろそろ帰るから。ほら、健くんも一緒に行こ」

茜はそう言って、駆けるようにして遠ざかる。

【健一郎】
「おい。俺とでいいのか?」

【茜】
「おっ。なになに。婚約者と帰るのがご不満なわけ?」

【健一郎】
「いや、それは別に気にならん」

【茜】
「じゃあ、椿の事気にしてるのかな?」

【茜】
「あれはねー、いいのいいの。椿は、あそこで待ってるの好きなんだからさ」

【健一郎】
「……ああ。あれは、誰かと待ち合わせしてたのか」

【茜】
「そ。旦那さんが、わざわざここまで迎えに来るらしいよ」

【健一郎】
「ふーん」

なるほど。最初に変な事を言われたのは、その夫と勘違いされたという事か。

納得しながら歩いていると、横を誰かが駆け抜けて行った。

おそらく、今のがその夫なんだろう。

少しすると、背後から「待たせてごめんよ」などという男性の大声が聞こえてくる。

思わず振り返って見てみると、さっきのオレンジさんが何かを受け取っているようだ。

あれは、ジュースだろうか。よくわからないが、彼女はそれを受け取って満足そうだった。

男性の方も、どこか誇らしげに見える。

【健一郎】
「あの2人、仲良さそうだな」

【茜】
「うん。微笑ましくてなによりだね」

【健一郎】
「……微笑ましい?」

【茜】
「うん。そだよ」

【健一郎】
「そうか。……まぁ、そうだな」

うん、とうなずいて俺はまた前を向く。

今の、茜の唇。

微笑ましいというそれが――本当は、羨ましい、と形どったように見えたのは気のせいだっただろうか。

;▲

パーティへの招待状。そう印刷された紙を丁寧に折って、飾り付けて、封筒に入れる。

さっきから、そんな作業の繰り返しだった。

【健一郎】
「これ、メールじゃダメなのか?」

【茜】
「ダメダメ。やっぱり、こういうのは手渡しだから雰囲気出ると思うんだよね」

【健一郎】
「雰囲気ね……」

クリスマスパーティをするなら、何か手伝える事はないか、と。

そんな風に訊いたのが運のつきだった。

さっきから、飾り付け用のものやらビンゴの景品の買い出しやら、今の招待状などといった準備を容赦なく頼まれている。

茜の方はパーティ用の食事をいろいろ試しているらしく、そちらはそちらで忙しそうなのだが。

【健一郎】
「これ、わざわざこんなに飾りつける必要あるのか? シンプルに白封筒でいいだろ」

【健一郎】
「カードも、わざわざ、開くと立体になるようにしなくてもな」

【茜】
「ポップアップカードっていうんだよ。面白いでしょ」

【健一郎】
「作る方はつまらん」

茜が用意した紙には、切り込みをするべき線が描いてある。

そこをカッターで切って折り曲げたり、場合によってはのり付けしたりして完成、という具合だ。

【茜】
「みんなの驚く顔を想像すると、楽しいよ」

【健一郎】
「こんな子供騙しで驚くのかよ」

【茜】
「驚くよ!」

【茜】
「もしその場で驚かなくっても、1人1人違う仕掛けだって知れば『わざわざこんな手間かけたのか!』って驚くはずだよ」

【健一郎】
「それ、驚くところ違うだろ……」

【茜】
「チッチッチ。わかってないなぁ」

【茜】
「もらった時のワクワク。開けた時の興奮。驚き、または絶望感。とにかく、その人の心を少しでも動かせたらなんでもいいんだよ」

【健一郎】
「絶望感ってのは?」

【茜】
「うーん……。いかにもって感じの雰囲気出して、ラブレターだと思ったら、ただの招待状でした! とか? やってみる?」

【健一郎】
「いや、やめとけ。それは恨まれる」

【健一郎】
「特に、こういった恋愛が絡んだイベントごとの前後は事件が多発するからな」

誇張表現ではなく、本気で。恋愛絡みとなると、どんな事が起きるのかわからない。

結婚式前後にも言える事だが、この時期も十分危ない。

どこもかしこも恋愛一色になるせいで、『この時期に恋人にフラれた=処刑されてしまう』という風に短絡的に考える人間は、あとをたたない。

【健一郎】
「お前も、ほいほい人についていったりするなよ」

【茜】
「はーい」

一応注意したものの、茜の声はどこまでも軽い。

【健一郎】
「本当にわかってるのか?」

【茜】
「わかってるわかってる。ある程度は注意してるって」

【健一郎】
「お前、少しでも頼られたらすぐについていくんじゃないか」

【健一郎】
「お前より警戒心が高かったはずの彩芽だって、数回そんな事があった」

【茜】
「ん? どんな事?」

【健一郎】
「変な男に迫られてた。『死にたくないから結婚してくれ』って」

【健一郎】
「『まだ結婚できない年齢なんだけど』ってサラッと返してたけどな」

【茜】
「あー。彩芽の場合は、あれだね。学校ではクールな印象強めだったから。彼氏いないと思われてたね」

【茜】
「その話なら、彩芽から聞いた事あるよ。そういう男の人を、健くんがバサーっとなぎ倒したんでしょ?」

【健一郎】
「別に。俺と付き合ってる事を公言していっただけだ」

【茜】
「だけっていっても、彩芽は凄く喜んでたんだよ」

【健一郎】
「そうか」

【健一郎】
「……なんか、いいよな。こういうの」

【茜】
「え?」

【健一郎】
「彩芽のことを、お前とこうして話せるのはいいと思った」

【茜】
「……うん。そだね」

【茜】
「健くんはずっと、彩芽の事を1人でずーっと抱えて考え込んでたからね。もっと、パーっと出しちゃうべきだったんだよ」

【健一郎】
「このクリスマスパーティみたいに、か?」

【茜】
「そうそう。このパーティではとくに、パーっとね! 思いっきり騒いじゃおうよ!」

【茜】
「だから、招待状作りも頑張ってよね」

【健一郎】
「……結局、そこに落ち着くのか」

ため息を吐きつつ、作業を続ける。

その時、ふと外れたところにある招待カードに気が付いた。

【健一郎】
「ん? こっちにあるカードは、飾り付けなくていいのか?」

【茜】
「あ。あー……それはね。印刷ミスしちゃったものだから、ゴミにしておかなきゃね!」

【健一郎】
「ふーん……」

茜は俺の手からすぐにカードをとり、ゴミ箱に捨てる。

だが、その動きがどうにも怪しい。一瞬しか見えなかったが、何かミスをしていたとも思えなかった。

そうして考えて、そういえば、と思い出す。

たしか以前に茜は、友達の1人が休業中だとか言っていたような気がする。

【健一郎】
「……」

俺は茜の目をぬすんで、ゴミ箱からこっそりとカードを取り出す。

そこには、他の陽気な招待状とはまるで違う文面が並んでいた。

『雛ちゃん、こんにちは』

『最近、あんまり話せてなくて……ううん、違う。私が避けちゃってて、ごめん』

『自分から避けてるのにこんな事言って悪いんだけど、24日にクリスマスパーティを開くんだよ。それで、私、雛ちゃんと一緒にまた騒ぎたいな』

『ううん。騒ぐわけじゃなくてもいい。ただ、改めて話がしたい。だから、来てくれると嬉しい』

手書きのその文字には、何度も消したあとがあった。

そのせいで、とても綺麗だとはいえない。

そんなカードの宛名の部分には、城ヶ崎雛菊様と書かれていた。

;▲

【健一郎】
「城ヶ崎雛菊、か……」

自室に戻り、さっき見たカードの事を考える。

改めて他のカードを確認してみたが、案の定、その雛菊という人に宛てたカードは他になかった。

という事は、茜はその雛菊という人をパーティに誘いたかったが、諦めた事になる。

それがどうしても気にかかる。

【健一郎】
「……とりあえず、この雛菊って子の事を小百合に訊いてみるか」

ダメでもともとだ。そう思いつつメールをしてみる。

すると、意外にもアッサリと答えがかえってきた。

【小百合】
『その名前なら知っている。高等部1年C組、城ヶ崎雛菊』

【健一郎】
『なんだ。知り合いなのか?』

【小百合】
『ワタシが一方的に知っているだけ。彼女は、それなりに有名』

それなりに有名……? 何か凄い特技でも持っている子なんだろうか。

どういう意味なのか、と再びメールをすると、

【小百合】
『ワタシの憧れの人には、かなわない。そういう事』

【小百合】
『4年前に卒業した桔梗様は、とても有名。雛菊という子は、まだまだ』

【健一郎】
「うん。……よくわからん」

下にスクロールしていくと、その桔梗様とやらに関する賞賛の言葉がずらずらと書かれていた。

とりあえず、目がすべるのでそれは無視する。

【健一郎】
『有名度合いじゃなくて、どういう理由で有名なのかを教えてくれ』

【小百合】
『悪役』

【健一郎】
『もうちょっと詳しく言ってくれないか』

【小百合】
『一昨年の結婚式。彼女は悪役を演じた。その点では評価に値する』

【健一郎】
「全然くわしくねぇ……」

というより、抽象的だ。

結婚式での悪役ってなんだ。花嫁でもさらっていったのか。

【健一郎】
『もういい。とりあえず、身体的な特徴を教えてくれないか』

【小百合】
『わかった』

今度のメールには、淡々とした返事とともに、イラストが添付されていた。

……。

うん。正直、出来はひどいが、大体の雰囲気はわかった、気がする。

【健一郎】
『助かった』

【小百合】
『構わない。けれど、ワタシは忙しい。メールはこれで終わり』

【健一郎】
『ああ。悪かったな。今度お礼する』

【小百合】
『いらない。ワタシがほしいのはあの人だけ。ばいばい』

【健一郎】
「……相変わらず、徹底してるな」

小百合とのメールを終えて、携帯電話を置く。

さて。これで、茜がパーティに呼びたい相手の事は多少わかった。

その雛菊という人を、勝手に呼ぶのはお節介だろうか。

……いや。茜だって、散々俺にお節介な事をしてきたんだ。

俺だって、ちょっとぐらい世話を焼いてもいいだろう。文句は言わせない。

俺が茜によって救われたと感じた分、あいつの憂鬱も取り払ってみせる。

;▲あと4日

【健一郎】
「あの子、か……?」

翌日の放課後。俺はホームルームの終わりと共に走って、1年C組の教室をのぞきこむ。

視線の先にいるのは、城ヶ崎雛菊。と、思われる女性だ。

朝や休憩時間に来た時は見当たらなかったため、休みなのかと思ったが、今はちゃんといる。

その彼女がてきぱきと荷物をまとめて廊下に出てきたところで、俺は声をかけた。

【健一郎】
「おい、そこのお前」

【雛菊】
「……」

しかし、彼女は止まらなかった。

無視して通りすぎるその肩に、軽く手を乗せる。

【健一郎】
「ちょっと待ってくれ。用があるんだ」

【雛菊】
「……」

だが、まだ止まらない。彼女はそのままズンズンと突き進む。

仕方なく、俺はその背中を追いながら声をかける。

【健一郎】
「なぁ。お前は、城ヶ崎雛菊……さん、でいいんだよな?」

【雛菊】
「……」

【健一郎】
「間違っているなら、そうだと言ってくれ。何も言わないなら、正しいと判断して話をすすめる」

【雛菊】
「……」

【健一郎】
「よし、わかった。お前はやっぱり雛菊さんなんだな」

【健一郎】
「実は話があるんだが、少しいいか?」

【雛菊】
「……」

【健一郎】
「……おい」

【雛菊】
「……」

【健一郎】
「さっきから、無視かよ。なんとか言えよ」

【雛菊】
「うるさいわ。邪魔よ。どこかに行って」

【健一郎】
「はぁ?」

【健一郎】
「俺の態度が不躾だったのは悪いが、だからといってその言い方はないだろ」

【雛菊】
「いいから近寄らないで」

【雛菊】
「さよなら」

【健一郎】
「あっ。おい、ちょっと待……ぶっ!」

突然、目の前を紺色がおおったかと思うと、それは彼女の持っていた鞄だった。

それを顔面に思い切りおしつけられた俺は、身構えていなかった事もあってなさけなくバランスを崩した。

【健一郎】
「あ……」

そうして、俺がしりもちをついている間に、雛菊さんは走り去ってしまった。

【健一郎】
「くそ……」

ほこりをはらいながら立ち上がると、周囲からの同情的な、または呆れの視線を感じた。

俺自身の事は言うまでもなく。あのオレンジさんといい、今の雛菊さんといい、茜はやっかいな人間ばかりに囲まれているらしい。

;▲あと2日

翌日も失敗した。ひたすら無視をされ続けた。

そうして3日目。やはり俺は雛菊さんの前に立つ。

今度は出てきた瞬間に手をつかみ、完全に逃がさないようにした。

彼女の鞄にも注意をはらっているため、もう昨日のようにはならないはずだ。

【健一郎】
「雛菊さん。俺は少し話をしたいだけだ」

【雛菊】
「……」

【健一郎】
「茜って人の事知ってるだろ。実は、今度のクリスマスにその茜がパーティをしようとしているんだが……」

【雛菊】
「い」

【健一郎】
「い?」

急になんだ。

疑問に思って言葉を止めると、雛菊さんは大きく息を吸い込み、

【雛菊】
「いやあぁっ! 誰か来て! 乱暴されてしまうわ!」

大声で叫んだ。

【健一郎】
「なっ……!?」

途端に、周囲がざわつき始める。

周りの人はもともと俺と雛菊さんの雰囲気を気にしていたらしく、突き刺さるような視線を感じる。

その真っ只中においてもまだ、雛菊さんは叫ぶ。

【雛菊】
「いやぁっ! ストーカーよ! 無理矢理結婚させられ、っ」

【健一郎】
「もう黙れ!」

はっと気がついて彼女の口を手で塞ぐが、もう遅い。

それどころか、この行動のせいで完全に俺が悪者になってしまったらしい。

最悪だ。

この時期。この状況でそんな事を言われたら――。

【教師】
「君。生徒指導室へ来なさい」

【健一郎】
「……はい」

俺は、他の生徒が呼んできたらしい教師によって、延々と説教をされる事になった。

;▲あと1日

昨日は結局、説教中に親を呼び出された。

途中で、当事者である雛菊さんが誤解だったと教師に口添えしてくれたらしく、処分を受けたりするようなことはなかったのだが。

普段より遅く帰ったために、結果として茜にも心配をかけてしまった。

しかし、まだ諦めるわけにはいかない。

今度こそ。そう思って、俺は空き教室で息をひそめる。

そうして、下駄箱に向かって歩いてきた雛菊さんを、背後から抱きかかえるようにして暗闇へと引き摺りこんだ。

【雛菊】
「っん、んー!?」

左手で腰。右手ではハンカチをかぶせたうえで口をおさえたため、今度は声も発せないはずだ。

そうして、にらみつけてくる彼女をなんとかおさえつつ、見下ろす。

【健一郎】
「手荒な真似をして悪いな。だが、どうしても話を聞いてもらいたいんだ」

【雛菊】
「……」

それでも、雛菊さんの抵抗は続く――かと思いきや、彼女は軽く周囲を見たあとに体の力を抜いた。

次いで、ハンカチを取ってため息混じりに言う。

【雛菊】
「まったく。アンタ、しつこいわね」

【雛菊】
「あまり大きな声を出さないというのなら、話を聞くわ」

【健一郎】
「……いいのか?」

【雛菊】
「えぇ。ここはそうそう人が来ないでしょうし、引きずり込まれた瞬間は、誰にも見られていないようだから」

【雛菊】
「話しても、問題がなさそうだわ」

問題がない……?

その言葉には引っ掛かりを覚えるが、ようやく話す気になってくれたのならありがたい。

俺は本題を切り出す。

【健一郎】
「お前には、明日、茜が開くクリスマスパーティに来てほしいんだ」

【雛菊】
「クリスマスパーティ? そこに、私が?」

【健一郎】
「ああ」

【健一郎】
「お前と茜には何かがあったんだろ。その事情は知らないが、茜はお前にパーティに来てほしがっている」

【健一郎】
「……いや、違うな。パーティを口実として、ただ、話したがっている」

【雛菊】
「ふーん……」

【雛菊】
「アンタはその連絡役として、茜に頼まれたのかしら?」

【健一郎】
「いいや。これは俺の独断だ」

【健一郎】
「正確に言うのなら、茜はお前への招待状を用意していた。だが、出す気がなさそうだった」

【健一郎】
「俺はそれが気に入らなかったから、勝手にお前へ話しただけだ」

【雛菊】
「……でしょうね」

【雛菊】
「あの茜が、他人に使われるならともかく、他人を使うなんて事をするわけがないわ」

【雛菊】
「でも、それならアンタに一言いいかしら?」

【健一郎】
「なんだ」

【雛菊】
「アンタのそれは、大きなお世話よ。ただの自己満足」

【健一郎】
「自己満足、か」

【雛菊】
「そうでしょう?」

【雛菊】
「アンタは良かれと思って私に言いに来たんでしょうけれど、茜の了承をとっていないなら、それはお節介よ」

【健一郎】
「自己満足に、お節介か。……ハハッ」

【雛菊】
「……ちょっと。何笑ってるのよ」

【健一郎】
「いや。俺も、同じことを茜に言ったからな」

【健一郎】
「そのまま返されると、不思議だと思った」

自己満足はともかく、お節介だなんて言われたのは初めてだ。

他人からもそう言われるだなんて、思った以上に茜に影響を受けているのかもしれない。

【健一郎】
「俺のこれが自己満足ならそれでいい。俺を満足させるためにも、お前にはパーティに来てもらう」

【雛菊】
「……無理よ」

【健一郎】
「理由はなんだ」

【雛菊】
「それこそ、茜が招待状を出さないのなら行けるはずがないわ」

【雛菊】
「私から、勝手に会いに行ける状況じゃないのよ」

【健一郎】
「あー……。今更だが、事情を説明してくれるか?」

俺が言うと、雛菊さんは肩をすくめた。

【雛菊】
「茜が結婚していた事は知っているかしら?」

【健一郎】
「ああ」

【雛菊】
「簡単に言うと、私は茜の夫の事が好きだったのよ。そして、結婚式の前日、いえ、直前まで付き合っていた事になるわ」

【健一郎】
「三角関係か?」

いや。だが、茜が結婚したのは一昨年だ。つまり、相手の男性は当時18歳。

目の前の雛菊さんは、当時14歳という事になって……。

……2年前の、14歳?

【健一郎】
「って、あれ。もしかしてお前、一昨年の結婚式で騒ぎをおこしたやつか……?」

【雛菊】
「あら、知ってるのね」

【健一郎】
「あ、あぁ。あの式を見ていたからな」

記憶の中では彩芽ばかりが鮮烈に残っていたが、
改めて考えてみると、雛菊さんには見覚えがある。

【健一郎】
「そうか。あの時の騒ぎに、茜も関わっていたのか……」

【雛菊】
「知っているのなら、話が早いわ」

【雛菊】
「好きな男を死なせないために、茜に結婚してもらったのよ」

【雛菊】
「茜も同意の上だった。……けれど、そんな事はなんの言い訳にもならないわ」

【雛菊】
「私は同情をさそって、茜の人の良さにつけこんだのよ」

【健一郎】
「……ちょっと待ってくれ。その言い方からすると、お前は茜を嫌ってはいないのか?」

【雛菊】
「茜を? なぜ?」

【健一郎】
「だって、お前が、茜の夫になった相手を好きだったという事は……」

言葉を止めると、思い出す。

茜が同棲を申し出てきた時に言った言葉と、外された指輪。

【健一郎】
「……君の好きな人は、亡くなったんだろ?」

【雛菊】
「……そうね。噂によると、1人で旅行にいって崖崩れに巻き込まれたらしいわ」

【雛菊】
「死体も見つからなかった、って」

【雛菊】
「けれど、それはあの人……信治が、勝手に事故にあっただけよ。茜のせいじゃないわ」

あの嘘つき男。と、消え入りそうな声でつぶやいて、雛菊さんは首を振る。

【雛菊】
「……私は違うわ。わかっていて、彼女を利用したのよ」

【雛菊】
「自分の好きな人のために、茜の人生を壊そうとした」

【雛菊】
「……だから、私から茜に近付く資格なんてないのよ」

【健一郎】
「……」

目を伏せる彼女の気持ちは痛いほどにわかった。

俺も、茜を利用して生きようとしている。その事への罪悪感が消えたわけではないからだ。

だが、だからこそ言わなければならない。

【健一郎】
「……ハッ。何が資格だよ。それこそ自己満足だろ」

【健一郎】
「俺はお前と茜の関係はたいして知らないが、これだけは言える」

【健一郎】
「茜は、利用されたからといって他人を嫌うようなやつじゃない」

【健一郎】
「むしろ、それを喜ぶようなやつだろ」

【雛菊】
「……その言い方だと、茜がマゾヒストっぽいわ」

【健一郎】
「間違っちゃ、いないだろ」

我ながら、言ってからヒドイな、とは思った。

だが、完全に外れているとは感じない。

【健一郎】
「あいつは、他人の笑顔を見るためならどんな事でもするやつだ」

【健一郎】
「だから、多分……。お前がそんな顔をしている方が、茜は辛いと思う」

【雛菊】
「それは、そうかもしれないけれど……。だからといって、これ以上その好意に甘える事はできないわ」

【雛菊】
「それに、お互いの事を考えたら、今のように離れていた方が良いと思うのよ」

【雛菊】
「下手に近付くと、茜まで何か噂されるかもしれないわ」

【健一郎】
「噂される?」

【健一郎】
「……茜までって事は、お前はそんなにいろいろと言われているのか?」

小百合が言っていた、それなりに有名、というのはその事だろうか。

目を瞬かせる俺に、雛菊さんはため息を吐く。

【雛菊】
「……アンタ、本当に何も知らずに近付いてきたのね」

【雛菊】
「噂なら、散々されてるわよ」

【雛菊】
「――あいつに近付くと殺される。ってね」

【健一郎】
「はっ? ……殺される?」

【雛菊】
「恋人を略奪されるから、らしいわ」

【雛菊】
「結婚式の一件によって、私は茜の恋人を奪おうとした人間という事になっているわ」

まぁ、私がそれを望んだんだけど。と、雛菊さんは続ける。

【雛菊】
「それって、この国では最悪よね」

【雛菊】
「結婚式の間際で恋人を奪われる。それは、死を意味するでしょう?」

【雛菊】
「だから、私は殺人未遂をしたって事になってるのよ」

【健一郎】
「……なんだよ、それ。胸糞悪いな」

【健一郎】
「その時からは1年半以上過ぎてるだろ。それなのに、まだそんな噂が続いてるのか?」

【雛菊】
「たしかに、思った以上に噂が長続きしていて呆れてしまうわ」

【雛菊】
「……でも、1年半たったからこそ、よ」

【雛菊】
「私は今年で16歳。正式に結婚できる年になったからこそ、みんな、また警戒しはじめたのよ」

【健一郎】
「それにしても、馬鹿馬鹿しいな」

【健一郎】
「そんな事言ってるやつらは、自分が付き合ってる相手を信じてないって事だろ」

雛菊さんに色目を使われたら、恋人が簡単に奪われてしまうかもしれない、と。

そんな風に考えるのは、交際相手に対して失礼だと思う。

【健一郎】
「って事は……もしかして、その噂が理由で、俺の事も無視したのか?」

【雛菊】
「えぇ、そうよ」

【雛菊】
「下手に話したら、アンタにも悪い噂がたってしまうかと思って」

【健一郎】
「……かわりに、俺は結婚に焦って後輩を襲ったクソ野郎、って事になりかけたんだが」

【雛菊】
「そ、それは、アンタが急に掴んできて慌てたのよ! あれぐらいしか、逃げ方が思いつかなかったの!」

【健一郎】
「だからって、なぁ……?」

【雛菊】
「なによ! もとはといえば、アンタが急に来るからよ!」

【雛菊】
「知らない上級生の男性がいきなり来たら、警戒するに決まってるでしょ!」

【雛菊】
「……でも」

【雛菊】
「その……悪かったわね。……ごめんなさい」

【健一郎】
「謝るなら、明日のパーティに来てくれよ」

【雛菊】
「なっ……!? なんでそうなるのよ!?」

【健一郎】
「だって、お前の話を総合すると、」

【健一郎】
「お前は、茜を嫌ってはいない」

【雛菊】
「えぇ。当然よ」

【健一郎】
「むしろ、利用してしまった事を謝りたいと思っている」

【雛菊】
「……そうね。でも……」

【健一郎】
「『でも、自分が下手に関わったら周りに変な噂をされて、迷惑がかかりそうだ』なんだろ?」

【雛菊】
「……えぇ」

【健一郎】
「だったら、迷惑かけちまえよ」

【健一郎】
「ああ、別に、茜に迷惑をかけろって言ってるんじゃない。俺に迷惑をかけろ、って事だ」

【雛菊】
「……それは、どういう意味かしら?」

【健一郎】
「もし茜とお前が一緒にいることで、変な憶測や勝手な噂が出るなら、そのつど俺に言ってくれていい」

【健一郎】
「言ってくれたら、そんな噂を言うやつ1人1人に話をつけにいく」

【雛菊】
「話をつけるって、アンタねぇ……」

【健一郎】
「頭を下げるとか、多少脅すとか、俺がもっとインパクトのある事をするとか、まぁ何かできるだろ」

【健一郎】
「とにかく、悪役は任せろ」

【雛菊】
「任せる、かはわからないけれど……」

【雛菊】
「……なんで、私と茜の問題にそこまで関わりたがるのよ?」

【健一郎】
「……」

【健一郎】
「……俺は、茜に迷惑をかけた」

【健一郎】
「多分、お前以上に茜に苦労させて、酷いことをした」

【健一郎】
「だから、その分お返しをしたいと思う。恩を着せられっぱなしってのは嫌なんだ」

【健一郎】
「だが、茜はあの性格だろ。自分の願望なんて全然口にしない」

【健一郎】
「今回も、クリスマスプレゼントにほしいものを訊いたら『私のプレゼントを受け取ってほしい』としか言ってくれなかった」

【健一郎】
「そんな中で、ようやく見つけたのがお前だったんだ」

【健一郎】
「『城ヶ崎雛菊と仲直りをしたい』というのが、俺が唯一見つけた、茜の願望だったんだ」

【健一郎】
「だから……自己満足かもしれないが、俺はそれを叶えたい」

【雛菊】
「ふーん……」

【雛菊】
「アンタは、茜の事が大切なのね?」

【健一郎】
「ああ。まだ実際にできているかはわからないが、このまま結婚して、ずっと大切にしたいと思っている」

【雛菊】
「そう……」

雛菊さんは、少し考える素振りを見せた。

それから、

【雛菊】
「……いつまでもおどおどしているなんて、私らしくなかったわね」

【雛菊】
「わかった。明日、パーティに出席するわ」

そう言って、うなずいた。

;▲パーティ
――そして、クリスマス当日。

【茜】
「今日は、みんな集まってくれてありがとう!」

【茜】
「独身生活最後のクリスマスの人も。そうでない人も。思いっきり、楽しんでいってね!」

会場の中央でみんなに囲まれる茜を見ながら、俺は壁に寄りかかる。

会場内にいる人数は、大体30人前後だろうか。よく集まったものだ。

雛菊さんはもう来ているだろうか。

そう思って周囲を見回していると、誰かと目が合った。

【???】
「こんばんは」

【健一郎】
「ああ、こんばんは」

とりあえず挨拶を返す。だが、わからない。

なんだこの人。

なんとなく見覚えはある、ような気がする。たしか、同学年ではあったと思うんだが……。

【健一郎】
「……誰だ?」

【椿】
「貴方、失礼ですね。椿ですよ」

【健一郎】
「椿……」

【椿】
「数日前、学園の中庭でお話したはずですが」

【健一郎】
「って、ああ。あれか。オレンジさんか!」

言われてみれば、茜が、あのオレンジさんをそう呼んでいた気がする。

思わず指差すと、嫌そうな顔でその手が払い除けられた。

【椿】
「いいですよ。椿でもオレンジでもみかんでも、好きに呼んでください」

【健一郎】
「そうか。じゃ、オレンジさんのままで」

【オレンジさん】
「……」

【オレンジさん】
「それで。あれ以降、茜とはどうなんですか?」

【健一郎】
「どう、って? 別に普通だ」

【健一郎】
「まぁ、ずっとこのパーティの事で忙しそうだったからな。結局、あまり話はできていないか」

俺も雛菊さんのところに行ったり、説教されたりで、疲れていた事もある。

顔を合わせる回数はやはり少ない。

【健一郎】
「だが、それも今日で終わったわけだからな」

【健一郎】
「後片付けは少し面倒だろうが、また明日から普通に話す時間ができるだろ」

【オレンジさん】
「……そうですか」

そうして会話している途中、会場の扉付近に雛菊さんらしい人の姿が見えた。

きょろきょろと左右を見回しているその様子からは、居心地の悪さが伝わってくる。

その姿が再び外に出てしまおうとしているのを見て、俺はオレンジさんとの会話もそこそこに、慌てて駆け出した。

;▲ターン

【雛菊】
「……」

【健一郎】
「雛菊さん!」

扉に手をかけた雛菊さんを呼ぶと、彼女はびくりと肩を跳ねさせた。

それから、ゆっくりと振り返る。

【雛菊】
「……あら」

【健一郎】
「あら、じゃないだろ。せっかく来たのに、何で帰ろうとしてるんだよ」

【雛菊】
「……会場の空気を、悪くさせたくないからよ」

【雛菊】
「やっぱり、ここにも私の噂の事を知っている人はいるようだから」

【健一郎】
「まだ、そんな事言ってるのか」

【雛菊】
「事実よ」

言われて周りに目を向けると、たしかに、チラチラと雛菊を見て何かを話す人間の姿があった。

とりあえずそいつらは全員睨んだうえで、改めて雛菊さんに向き直る。

【健一郎】
「ちょっと待っていろ。話をつけてくる」

【雛菊】
「その必要はないわ」

【雛菊】
「私は今日、茜と話すためだけに来たのよ。だから、茜を連れてきてもらえたらそれで良いわ」

【健一郎】
「だが、せっかくのパーティなんだから……」

【雛菊】
「いいから。どうせ、こんな人がいるところでするような話でもないわ」

【雛菊】
「私は、外で待ってるから。よろしく」

言うだけいって、雛菊さんは扉の向こうに消えた。

少し納得はいかないが、仕方ない。

俺は会場の中央に足を向ける。

そこでは、男女問わず様々な人に囲まれながら話している茜の姿があった。

その合間に入りこむようにして、俺は彼女の名前を呼ぶ。

【健一郎】
「茜!」

【茜】
「あ、健くん。どしたの?」

【健一郎】
「会ってもらいたい相手がいるんだが、ちょっといいか?」

【茜】
「あ、うん。大丈夫だよ」

【茜】
「じゃ、みんな。ちょっと抜けるねー」

【オレンジさん】
「この場の責任は私が引き受けますから、ごゆっくり」

【茜】
「うん。ありがとう。よろしくね!」

茜は周囲の人間に笑顔を振りまきつつ、軽く手を振る。

そうして、興味津々といった風に俺へ近付いてきた。

【茜】
「会わせたい相手って、誰かな? 小百合ちゃん?」

【健一郎】
「いや、違う。あいつも一応メールで誘っておいたんだが、連絡がなかった」

【健一郎】
「まぁ、愛しの彼とでも過ごしてるんだろ」

【茜】
「あ、そっか。2人きりが好きそうだったもんねー」

【茜】
「じゃあ、誰かな。私が知ってる人? それとも健くんのお友達?」

楽しみだよ、と。嬉しそうな声を出す茜を背後につれて、会場の扉の方へと向かう。

そうして、扉を開けながら茜の背を押して、

【健一郎】
「お前に会わせたいのは……彼女だ」

外で待つ、彼女と会わせた。

;▲

【茜】
「あれ。え、っと……」

前に立つ人の姿をとらえて、茜が目を瞠った。

ひゅっ、と。その喉がならした音を合図にしたかのように、雛菊さんが一歩進みでる。

【雛菊】
「……久しぶりね、茜」

【茜】
「あ……。うん。久しぶり、だね」

【雛菊】
「こうして顔を合わせるのは、あの結婚式以来かしら」

【茜】
「……うん。いろいろ、あったからね」

【雛菊】
「……そうね」

【雛菊】
「……あのね、茜。遅くなってしまったけれど……」

【雛菊】
「あの時結婚させてしまって、本当に、ごめんなさい」

【茜】
「え……?」

【茜】
「違うよ。謝らなきゃいけないのは、私の」

【雛菊】
「っ、違わないわ! 私が悪いのよ!」

【雛菊】
「あの時の私は、本当に子供だったわ。自分では大人だと思っていたけれど、そんな事はなかった」

【雛菊】
「私は結局、信治の事……いえ、自分の事しか考えていなかった」

【雛菊】
「誰かと結婚させれば、信治は死ななくてすむ。私の好きな人が生きていく。……そんな事しか考えていなかったの」

【茜】
「その考えは、間違ってないと思うよ?」

【茜】
「結婚しなきゃ、殺されちゃうのは事実だよ」

【雛菊】
「そうね。結婚しなかったら、そこで終わり。それはわかっていたわ」

【雛菊】
「でも。結婚しても、そこで終わりだと思っていたの。……私の好きな人が生き延びたから、それで良いと思っていた」

【茜】
「それで、良かったんじゃないのかな」

【雛菊】
「っ、良くないわ!」

【雛菊】
「結婚には、生活があった。……その後に2人の生活が続いていくという事を、私はまるで考えていなかった」

【雛菊】
「自分が結婚したら、という想像はしても、貴方と信治の結婚生活の事なんて想像もしなかったのよ」

【雛菊】
「だから、それが本当に貴方と信治の幸せになるのかなんて……考えた事もなかった」

【雛菊】
「信治が生き延びた。ただそれだけを考えて、勝手に1人で満足していた」

【雛菊】
「本当に、馬鹿な子供だったわ」

【雛菊】
「だから……安易な考えで結婚させてしまって、ごめんなさい」

【雛菊】
「……っ、ごめん、なさい」

【雛菊】
「貴方の事を考えていなくて、ごめんなさい」

【雛菊】
「優しさにつけこんで、ごめんなさい」

【雛菊】
「自分勝手な事をしてしまって、ごめんなさい」

【茜】
「雛ちゃん……」

茜は、頭を下げる雛菊さんに向かって、手を伸ばす。

途中、ためらうように動きを止めた。その指先を揺らした。

けれど、すぐに意を決したように唾を飲むと、

【茜】
「雛ちゃんっ!」

雛菊さんを抱きしめた。

【雛菊】
「あ……。茜……?」

【茜】
「雛ちゃんは、なんにも悪くないよ」

【茜】
「だって、大切な人に生きていてほしいっていうのは、普通の事だよ。みんな、それを望むよ」

【茜】
「大切な人が死にそうで、そこに助けられる方法があるのなら、それに縋るよ。なにもおかしくないよ」

【雛菊】
「でも、それで貴方を利用してしまった」

【茜】
「利用したのは、私もだよ。1回結婚したおかげで、私も処刑に怯える必要はなくなったわけだからね」

【雛菊】
「貴方なら、いくらでも他の結婚相手が見つかったわ」

【雛菊】
「それなのに、無理矢理、信治と結婚させてしまって……」

【茜】
「こらこら。その言い方は、ひどいんじゃないかな? なんか、信治くんとの結婚が罰ゲームみたいに感じるよ?」

【茜】
「君の好きな人は、結婚相手を苦しめるような人だったの?」

【雛菊】
「っ、そんな事ないわ!」

【雛菊】
「信治はそんな人じゃない! 優しくて、他人の事を気遣っていて、ちょっと嘘つきだけど、でも、でも……っ」

【茜】
「うん。そうだよね」

【茜】
「良い結婚生活だったよ」

【茜】
「幸せすぎるぐらい、だったよ」

【茜】
「……だから、雛ちゃんは謝らなくていいんだよ」

茜は優しく言いながら、雛菊さんの背中を撫でた。

何度も、何度も。ゆったりと。

そうすると雛菊さんは茜の体に顔を押し付けて、しゃくりあげながら泣いた。

そうして泣いている間にも、茜はただ背中を撫でて、「謝らなくていいんだよ」と言い続ける。

――そんな光景は、雛菊さんが泣き止むまで続いた。

;▲

【茜】
「……もう、落ち着いた?」

【雛菊】
「っ。え、えぇ……」

顔をマフラーで隠すようにしながら、雛菊さんはうなずく。

その目尻にはまだ涙の名残があるものの、本人の弁通り平気そうだ。

【雛菊】
「……あぁ、もうっ。こんなつもりじゃなかったのに」

【雛菊】
「茜に泣かされてしまうなんて、不覚だわ。一生の不覚よっ!」

【茜】
「あ。ひどーい。それじゃ、私がいじめっ子みたいだよ」

【雛菊】
「茜なんて、いじめっ子ぐらいで丁度いいのよ!」

【茜】
「えーっ。それどういう意味!?」

わいわいと騒ぎ出した2人を見て、俺は肩をすくめる。

【健一郎】
「……一件落着、ってところか?」

さっきといい今といい、俺は思いっきり蚊帳の外なのだが。

まぁ、いいか。

ぼんやりと2人の言い争い――というほどでもないじゃれあい――を見ていると、不意に茜が声をあげた。

【茜】
「あっ! そういえば、なんで雛ちゃんがここにいるの?」

【雛菊】
「……今更、それなの?」

【健一郎】
「遅い疑問だな」

【茜】
「だ、だって、さっきまでは驚きばかり感じてたんだよ!」

【茜】
「ねぇねぇ、どういう事? 雛ちゃんと健くんって、知り合いだったの?」

【健一郎】
「いや、知り合いというか……」

【雛菊】
「この人が、わざわざ私に声をかけてきたのよ」

【雛菊】
「『茜のためにパーティに来てほしいんだ!』『俺は茜のためならなんでもする!』ってね」

【健一郎】
「そこまでは言ってない」

【雛菊】
「あら。言ってたようなものじゃないの」

【茜】
「へぇ。そっか……」

【雛菊】
「……って、あら。そういえば、貴方、健くんっていうの?」

【健一郎】
「ああ。そういえば名乗ってなかったな。俺は舘林健一郎だ」

【雛菊】
「ふーん。……そうだったのね」

雛菊さんは、考え込むような素振りをみせた。

それから、朗らかに笑う。

【雛菊】
「茜。おめでとう」

【雛菊】
「貴方はちゃんと、好きな人と結婚する事ができるのね」

【健一郎】
「……は?」

……?

どういう事だ?

【健一郎】
「茜が……好きな人と、結婚?」

【茜】
「あ……」

【雛菊】
「えぇ。だって、貴方たちは結婚できるんでしょう?」

【雛菊】
「ずっと好きだった相手との結婚なんて、素晴らしいじゃないの」

【雛菊】
「これは嫌味とかじゃなくて、本心から言ってるのよ」

【健一郎】
「……ずっと、好きだった? ……茜が、俺を?」

【茜】
「あ、あ……」

【雛菊】
「あ、ら……?」

【茜】
「あ、ははっ! そ、そんなわけないでしょ!」

【茜】
「やだなー。雛ちゃんったら、勘違いだよ! あ、はは!」

【茜】
「はは、は……っ」

【茜】
「……っ、ごめん! 私、帰るね!」

【健一郎】
「茜!?」

【雛菊】
「茜! 待って!」

茜は突然笑い出したかと思うと、そのまま走り出した。

俺が呆然としている間に、その背中はみるみるうちに小さくなっていく。

雛菊さんはすぐに追いかけたようだが、途中で追いつけなくなったのか、呼吸を乱したまま戻ってきた。

【雛菊】
「っ、は……。なんで、茜は急に……っ」

【雛菊】
「ねぇ。これは、どういう事なの……?」

【健一郎】
「……それは、俺の方が訊きたい」

わけがわからない。混乱している。

【健一郎】
「茜が、俺を好きっていうのはどういう事なんだ?」

【健一郎】
「あいつは、ボランティアで俺と結婚するんじゃなかったのか?」

【雛菊】
「……ボランティアですって? 茜がそんな事を言ったの?」

【健一郎】
「ああ。俺を生かすためだけに、結婚するって……」

【雛菊】
「そんなはずがないわ!」

【雛菊】
「だって、貴方は『健くん』なんでしょう!?」

【雛菊】
「だったら、茜が好きなのは貴方のはずだわ! 私は、あの時たしかに聞いたもの」

【健一郎】
「あの時……?」

【雛菊】
「……」

【雛菊】
「……4年前の夏。茜と初めて出会った時の事よ」

【雛菊】
「私はその時、泣いていたの」

【雛菊】
「年齢が邪魔をして、好きな人と結婚できない。その事が悔しくて泣いている私に、茜は話しかけてくれたわ」

【雛菊】
「優しく話を聞いてくれて、涙をぬぐってくれて、茜は言った」

【雛菊】
「『私も同じだよ』って、言ったのよ」

【健一郎】
「……何が、同じだったんだ?」

【雛菊】
「そう。私も訊いたわ。『どう同じなのよ?』って」

【雛菊】
「そうしたら、彼女は微笑んだわ」

【雛菊】
「『私も、好きな人と結婚できないんだよ』って」

【雛菊】
「そうして、似た者同士だからと、茜は私の計画にのってくれた。それもあって、信治と形だけの結婚をしてくれた」

【雛菊】
「それから、茜とはいろいろ話をしたわ。好きな人の名前も聞いた」

【雛菊】
「その名前が、『健くん』だったわ」

【雛菊】
「だから、私、てっきり2人が愛し合って結婚するものだとばかり……」

【健一郎】
「……そんな事、今、初めて聞いた」

茜が、俺の事を好きだった?

それも、4年も前からだって?

その時はまだ彩芽も生きていた。丁度、付き合い始めた頃だったはずだ。

3人で遊んだ事も数回ある。なのに、そんな素振りは見たことがない。

【健一郎】
「茜と俺は……あの頃、そこまで親しくなかったはずだ」

【健一郎】
「会話をしていても、少しして離れていくぐらいで……」

【雛菊】
「たしか、あえて避けている、って言っていたわ」

【雛菊】
「2人の邪魔をしたら悪いから、って」

【健一郎】
「あえて、避けている……?」

その言葉が引っかかった。

――そうだ。それは、最近の事と同じじゃないか?

近頃、茜は俺を避けていた。それも、その恋心によるものだったとしたらどうだ?

俺が何も知らない状態でも、避けていた茜。それが暴露された今、あいつはどうするのか。

考えて答えが出るわけではなかったが、嫌な予感がした。

【健一郎】
「っ、悪い。俺、帰らねぇと!」

;▲

【健一郎】
「茜!」

戸惑ったままの雛菊さんをおいて、俺は自宅まで走って帰った。

そうして、玄関の扉を開けて中に入ると――。

【健一郎】
「……茜?」

茜の姿はなかった。

帰ると言ったはずなのに、なぜいないのか。

訝しみながら廊下を歩くと、違和感を覚えた。

なんだろう。何か、雰囲気が違うような気がする。

そのまま、キッチンまで移動すると、

【健一郎】
「……ん?」

テーブルの上に、紙が置いてあった。

それには、走り書きされた文字が踊っている。

【茜】
『私、ここで生活するのやめるね』

【茜】
『結婚をやめるわけじゃないよ。ただ、一緒に生活するのはやめるね。その方がいいと思う』

【茜】
『今度会うのは結婚式で、ただ誓いの儀式だけやってそれっきり、って事でどうかな』

【健一郎】
「なんだよ、これ……っ!」

理解できない。

なにがごめんだ。何がやめるだ。

こんな程度の文で、何をわかれっていうんだ。

いや。わからせる気もないのか。

今すぐに、茜をつかまえて話し合わなければ納得がいかない。

こんな置き手紙も書いていたぐらいなんだから、そう遠くには行っていないだろう。

絶対に、見つけ出して文句を言ってやる。

;▲

――そうして、俺は思いつく限りの場所を走り回った。

学園の校舎。中庭。

公園や、グラウンド。果ては、近所のドラッグストアまで。

途中、雛菊さんや茜の両親などに話を聞いたりもした。

道行く人に声をかけて、訊ねてみた。

だが、茜がどこにいったのかわからないまま、陽は沈んでいった。

;▲
【健一郎】
「っ、はぁ……」

もしかしたら、家に戻っているんじゃないか。

そう思って玄関の扉を開いたが、やはり、茜は出迎えてくらないままだった。

周囲の部屋はちらほらと電気がつきはじめているというのに、この一室は暗いままだ。

止まった事で肌寒さを感じて、ぶるりと体が震える。

【健一郎】
「くそっ。あいつは、どこに行ったんだ……」

茜の服装を思い出す。

パーティ会場内に暖房がきいていた事もあって、あまり厚着ではなかったはずだ。

どこかホテルにでも入っていればいいが、もしもあのまま冬の夜を過ごしたら、風邪をひいてしまうだろう。

やはり、はやく探さなければ。

気だけが焦る。だが、他に思いつく場所がない。

【健一郎】
「何か、手がかりになるようなものは……」

あらためて周囲を見回した時、ふとそれに気が付いた。

【健一郎】
「……狐面か」

立ててあったはずの狐面が倒れている。多分、玄関の扉を勢いよく開けたため、風圧でそうなったんだろう。

さっき家に戻った時に感じた違和感はこれだったのか、と。

そんな事を考えて――思い出した。

;▲回想

【彩芽】
「ここの近くに公園あるでしょ。そこに続く道に、大木とベンチがあるの知ってる?」

【彩芽】
「あの場所、なんとなく雰囲気があって好きなんだよね。大木が力強いっていうか、落ち着くというか」

【彩芽】
「お姉ちゃんとも、よく行く場所なんだよ」

;▲

【健一郎】
「まさか……」

そういえば、公園は見て回ったが、その場所は見ていない。

思った瞬間に、再び玄関を開け放つ。

そうして、また走り始めた。

;▲

公園を通り過ぎて、道を進む。

大木はないかと左右に顔を動かして、探して、それらしい木を見つけた。

そうして、その木の根元にはベンチがあり、

【健一郎】
「あ……」

そこに――茜は座っていた。

【健一郎】
「茜!」

俺が声を張り上げると、茜はびくりと体を揺らす。

そのまま逃げようとしているのか、ベンチから立ち上がった彼女を、俺はにらむ。

【健一郎】
「逃げるな! 逃げたら、俺はこの寒空の下で、またお前を探し続けるからな!」

【茜】
「……っ」

すると、彼女は動きをとめた。

どうするべきかと悩んでいるらしいその隙をついて、俺は茜の手を掴む。

【健一郎】
「……っ、お、まえ。こんなところに……いたのか」

【茜】
「健くん……」

【茜】
「なんで、ここがわかったの?」

【健一郎】
「ここ、お気に入りの場所、なんだろ。……前に、彩芽が言ってた」

【茜】
「そっか。……彩芽には、かなわないな」

【健一郎】
「そんな事より、この置き手紙はなんなんだよ!」

【茜】
「……そのままの意味だよ」

【茜】
「あの場所は好きにしていい。1人で、暮らしてくれていいよ」

【茜】
「家賃とかは、私がバイトしてちゃんと払うから大丈夫だよ」

【健一郎】
「……お前はどうするんだよ」

【茜】
「……」

【健一郎】
「ここで、野宿でもするのか?」

【茜】
「……わからない。でも、気にしないでほしい」

【茜】
「うっかり死んじゃったりしないよ。結婚式の日も忘れずに行くから。だから……」

【健一郎】
「気になるのはそこじゃねぇよ!」

【健一郎】
「なんなんだよ、お前は。自分1人で勝手に納得してるなよ!」

【健一郎】
「俺は理解できない。しっかり説明してくれ」

【茜】
「……簡単な話だよ」

【茜】
「君は結婚する。ただ、結婚相手が私だとは考えないでほしいんだよ」

【茜】
「適当な、都合の良い誰かだと思ってほしいんだよ」

【健一郎】
「はぁ?」

【茜】
「だって……さっき、聞いたよね!?」

【茜】
「私は、君が好きなんだよ!」

【茜】
「だから……私としては、結婚しちゃだめなんだよ!」

【健一郎】
「……わけわかんねぇ。普通は逆だ」

【健一郎】
「好きだったら、結婚したいものだろ」

【茜】
「……それは、許されないよ」

【茜】
「だめだよ。だって、私は……最低な人間だから」

【健一郎】
「……そう思う理由はなんだ」

茜をじっと見つめながら、問いかける。

すると彼女は視線をそらしながら、ぽつりぽつりと言い始めた。

【茜】
「私は……何もできなかった、から」

【茜】
「私は、いろんな人に迷惑をかけた、から」

【健一郎】
「だから、その迷惑ってなんなんだよ?」

【茜】
「……私は、お節介なんだよ」

【茜】
「適当に口を出して、調子にのって、誰かの役にたった気になる。……でも、失敗するんだよ」

【茜】
「雛ちゃんと信治くんの事も、そうだよ」

【茜】
「私は2人から相談を受けたんだよ。それぞれから、どうすればいいかなって言われて、両方にとって都合のいいことをいった」

【茜】
「親切な事をしていたつもりになって、でも、結局何もできなかった」

【茜】
「雛ちゃんはみんなから悪く言われた」

【茜】
「それを見た信治くんも、心を痛めていた」

【茜】
「私は、2人を助ける事なんて、できなかった」

【茜】
「そして結果的に……彩芽の事件も起きた」

【健一郎】
「ちょっと、待てよ。それと彩芽の事と、何が関係あるんだよ?」

【茜】
「あの結婚式の時、私は彩芽と健くんの傍にいるべきだったんだよ」

【茜】
「そうしたら、ストーカーだって勘違いしなかった。2人が結婚したなんて思わなくて、彩芽が刺されるなんて事もなかったはずだよ」

【健一郎】
「そんなのは、勝手な想像だろ」

【健一郎】
「彩芽を刺したやつが、勝手に勘違いしただけだ。お前とは何の関係もない」

【茜】
「……でも、私は人殺しだよ」

【健一郎】
「だから、この責任はお前にはなくて……」

【茜】
「ううん、違うよ。他の人の話だよ」

【健一郎】
「他の人?」

【茜】
「うん」

【茜】
「私は、自分の夫を……信治くんを、殺したんだよ」

【健一郎】
「は……!?」

【健一郎】
「それは……どういう事、なんだ?」

【健一郎】
「お前が、殺した?」

【茜】
「うん。……社会的に、殺した」

【茜】
「信治くん。私の、元夫はどこかで生きてるよ」

【茜】
「ただ、行方不明になって……。ちょっと細工をしてね。書類上では、死んだって事になってるんだよ」

【茜】
「だから、今はまともに生きていけないんだよ」

たしかに、書類上で死んだ事になっているのなら、定職についたり住居を借りたりする事はむずかしいだろう。

【健一郎】
「……その人は、なんでそんな事をしたんだ?」

問いかけると、茜は遠くをみた。

それから、寂しげに目を細める。

【茜】
「……私のため、だよ」

【茜】
「私が……君と再婚できるように、って。そう言って、信治くんは失踪したんだよ」

【健一郎】
「……っ。俺との、ため?」

【茜】
「……うん」

【茜】
「彩芽が死んで、健くんは生きる気力をなくして、雛ちゃんがいろんな人から責められて」

【茜】
「そんなものを見ていて……私は、疲れちゃって。ある日、信治くんに言っちゃったんだよ」

【茜】
「どうすればいいのかわからない、って」

【茜】
「……そうしたら、信治くんは『僕がいなくなるよ』って、言った」

【茜】
「『だから、君は好きな人と再婚できるよ』って。そう言って、次の日、本当にいなくなっちゃったんだよ」

【茜】
「あっさりと、出て行っちゃったんだよ」

【茜】
「そうして、信治くんは死んだ事になった。……私の一言が、彼を殺したんだよ」

【茜】
「雛ちゃんは信治くんに生きていてほしかったのに、その信治くんを、私が殺しちゃったんだよ!」

【健一郎】
「……なんだよ、それ」

顔も知らない、その信治という男に怒りが湧いた。

なんだ。なんなんだ。その勝手さは。

それで死んだ事にするなんて、茜と雛菊さん両方を傷つける事になるじゃないか。

特に、雛菊さんを傷つけた事で、茜は更に責任感を覚えてしまっている。悪循環だ。

何も解決したとは思えない。ただ、その人が逃げただけともいえる。

だが、その人を非難するだけの資格は俺にない。

そもそも、茜がそんな風に憔悴したのは、俺のせいだ。俺が、生きようとしていなかったからだ。

思えば、茜は何度も俺に見合い写真などを用意してきた。

俺を誰かと結婚させようとした。それでも、俺はずっと拒み続けた。

見合い相手と顔を合わせる事すらしなかった。

だからもう、茜自身が結婚するしかなかった。無理矢理、俺のところに押しかけるしかなかった。

信治という人も、そう判断して失踪したんだろう。

まさか、俺の安易な考えがそんなところにまで影響を及ぼしてしまうなんて思わなかった。

それを思うと、1人で悲劇に浸っていたあの時の自分が憎らしい。

そうして湧き上がるいらだちを抑えるように、俺は深呼吸をする。

【健一郎】
「……大体の事情はわかった」

【健一郎】
「だが。それなら尚更、お前は責任をもって俺と結婚する必要があるんじゃないか?」

【健一郎】
「どうして、一緒に住まないなんて言うんだ?」

【茜】
「……だから、君が、好きだからだよ。君の事が好きだってバレてしまった私では、一緒に住んでいたら駄目なんだよ」

【茜】
「だって、このまま一緒に住んでいたら……私は、幸せだって感じちゃうんだよ!」

【茜】
「今までは、まだ良かったよ。ただのボランティアで、ギブアンドテイクで、都合の良い存在でいる事ができた」

【茜】
「でも、今は……君が優しい。君が、私の想いを知っちゃった」

【茜】
「そんなのって、ずるいと思う。いけない事だと思う」

【茜】
「こんなの……彩芽に怒られちゃうよ!」

【健一郎】
「……彩芽の事が気になるのか」

【茜】
「当然だよ!」

【茜】
「だって、健くんと付き合っていたのは彩芽なんだよ!?」

【茜】
「健くんも彩芽の事が好きで、2人は幸せそうだった」

【茜】
「なのに、そんな彩芽が、結婚できなかった」

【茜】
「彩芽が叶えられなかった事なのに。私だけが君と幸せな結婚生活をおくるなんて、しちゃいけないんだよ!」

【茜】
「……こんなはずじゃなかったんだよ」

【茜】
「私はただ……生きてほしかった」

【茜】
「ただ、自分の好きな人に笑っていてほしかった。大切な人に、幸せでいてほしかった」

【茜】
「それを願っていたはずなのに、失敗ばかりした」

【茜】
「私は、誰かを傷つけてばかりだよ」

【茜】
「私には、何もできないんだよ……っ!」

【健一郎】
「……」

【健一郎】
「……お前って、本当に気持ち悪いな」

【茜】
「っ……!」

【健一郎】
「なんだよ。何もできない、って」

【健一郎】
「お前は、自分なら他人に何かができると思ってたのかよ」

【健一郎】
「……いや。お前だけじゃないな。きっと、みんな思ってたんだろうな」

冷静になって考えていくと、馬鹿馬鹿しい話だ。

俺も、茜も、雛菊さんも、信治って人も。

結局のところ、みんな、自分の好きなようにしただけだ。

相手のためとか理由をつけて、自分なら何かができると思って、勝手な事をしたんだ。

雛菊さんは、信治って人のためだと言って、茜と結婚させた。

信治って人は、茜のためだと言って、失踪した。

彩芽は、俺のためだと言って、かわりに刺された。

俺は、彩芽のためだと言って、死のうとした。

茜は、俺のためだと言って、形だけの結婚をしようとした。

彩芽に悪いからと言って、俺への恋心を封じようとした。

……これだから、人間関係は好きじゃないんだ。

みんな勝手な気遣いばっかりしやがって。

自分勝手な事をいって、好きに動いた。その結果が、これだ。

【茜】
「……」

こんな風に……無駄にあれこれ考えて、背負い込むやつが出てきたんだ。

みんなが好きに動いたといっても、その中でも多分、この茜が一番損している。

一番、考えをしまいこみすぎたんじゃないか、と思う。

そうしてぼんやりと茜を眺めていると、以前、彩芽の言っていた事を思い出した。

;▲回想

【彩芽】
『――お姉ちゃんも、戦わないんだよね。戦うフリはしてくれるけど、いっつも逃げちゃう』

【彩芽】
『私は勝ちを譲られるんだよ』

【彩芽】
『譲られた勝ちなんて、負けるより屈辱的。悔しい。最悪な気分』

【彩芽】
『だから、そういう時のお姉ちゃんは嫌い』

;▲回想戻す

……ああ。俺も、嫌いだ。

心の中で彩芽に答えて、俺は茜に目を向ける。

【健一郎】
「……なぁ、茜」

【健一郎】
「お前さ。なんで、俺に告白して来なかったんだよ」

【茜】
「それは……。だって、健くんと彩芽は付き合っていて……」

【健一郎】
「もっと前の話だ。雛菊さんの口ぶりからすると、お前は俺と彩芽が付き合う前から、俺の事が好きだったんじゃないのか?」

【茜】
「……まぁ、そうだったけど」

【健一郎】
「だったら、なんでだよ?」

【茜】
「……わからなかった、から」

【健一郎】
「わからない?」

【茜】
「うん」

【茜】
「君が好きな事はわかったよ。でも、好きになったらどうすればいいのか、わからなかった」

【茜】
「私は、ある程度の人に好きになってもらう方法なら知ってたよ。みんなに親切にして、笑顔を向けていればいいって教えられた」

【茜】
「でも……自分が好きになったらどうすればいいのかは、何も知らなかった。わからなかったんだよ」

【健一郎】
「それで? 俺と彩芽が付き合うのをただ眺めていた、ってわけか」

【茜】
「……っ。そう、だよ」

【茜】
「付き合い始めたって聞いて、2人を応援するって決めた」

【茜】
「それなのに……彩芽がいなくなった途端に、健くんに近付いたのが私なんだよ!」

【茜】
「だから、何度も言ってるでしょ」

【茜】
「こんな私じゃダメなんだよ。名前もない、誰かとして結婚する方がいいんだんだよ!」

【健一郎】
「……本当に、お前はそれでいいのか?」

【健一郎】
「都合の良い誰かになっていいのか? 俺が生きるためだけに、お前を利用していいのか?」

【茜】
「いい、よ」

【健一郎】
「……よくねぇよ」

【健一郎】
「そんなのは俺が認めない。俺は、誰かと結婚するなんてまっぴらごめんだ」

【健一郎】
「お前の事を認識もせず結婚したら、それこそ彩芽から何を言われるかわからないだろ!」

【健一郎】
「いいか。彩芽は、お前と戦いたがっていたんだよ!」

【茜】
「戦い……?」

【健一郎】
「そうだ。お前に逃げられてつまらないって、ぼやいてたんだ」

【健一郎】
「だから。今こそ戦えよ!」

【茜】
「……彩芽と? ……どうやって?」

【健一郎】
「だから……」

【健一郎】
「……お、俺を、惚れさせてみろよ!」

【茜】
「……え?」

【茜】
「えー、っと……」

【茜】
「……健くんって、ナルシスト?」

【茜】
「それとも、少女趣味? 私をかけて争わないで、っていうのをしたいの?」

【健一郎】
「……そういうわけじゃない。ただ、結果的にそうなっただけだ」

【健一郎】
「俺はまだ、彩芽を忘れられない。彩芽が好きだ」

【健一郎】
「だが、好きでもないのに茜と結婚したなんて言ったら、きっと彩芽は怒る。『何贅沢な事言ってんのさ』とか言われるだろう。それは嫌だ」

【健一郎】
「だから、俺が彩芽と茜両方を好きになれば問題ない。勝負をしたかった、という彩芽の願いもかなうはずだ」

【茜】
「なに、それ」

【茜】
「……そんな適当な感じで、いいのかな」

【健一郎】
「いいだろ、別に」

【健一郎】
「最初にお前が言ったじゃないか。『傷の舐め合いをしよう』って」

【健一郎】
「だから、まずはそこからだ。言いたいこといって、お互いに慰めあうところから始めよう」

【茜】
「そして、惚れさせてみせろ、って?」

【健一郎】
「ああ」

【健一郎】
「……それでだな」

【健一郎】
「これは、話を聞かなかった俺も悪いんだが……。俺が知っている茜の事は、周りの人から聞いた茜の事ばかりだ」

【健一郎】
「お前本人の口からは、ハッキリと気持ちを伝えられた事がない」

【健一郎】
「だから、言えよ」

【健一郎】
「俺は察しが悪いんだ。全然気付けねぇよ。だから……隠さずに言ってくれ」

【茜】
「そ、だね」

【茜】
「……」

【茜】
「健くん。私は……」

【茜】
「私は、君が好きだよ」

【茜】
「好きだから、生きてほしいと思うよ。好きだから、一緒にいたいって感じる」

【茜】
「だから、ボランティアとかじゃなくって……」

【茜】
「ただ君と、結婚がしたい」

【健一郎】
「ああ。……結婚を、しよう」

;▲ED

周りから、拍手が湧き上がった。

祝福の声と笑顔で見守ってくれる人たちの間を、俺と、茜の2人で歩く。

あの日、彩芽と遠くから見ている分にはただの流れ作業でしかなかった誓いの儀式は、実際にやってみると緊張した。

だが――これで、俺と茜は婚姻が成立だ。

まだ彩芽の事を思うと少し複雑な気持ちは残っているが、同時に、清々しい思いもある。

【雛菊】
「2人とも、おめでとう」

【茜】
「雛ちゃん、ありがとう!」

【健一郎】
「ああ。ありがとう」

あの後、雛菊さんと茜はあらためて仲直りする事ができた。

よく3人で遊ぶようにもなった。なかなか楽しい。

ただ問題があるとすれば……雛菊さんには、未だ、信治という人が生きている事実を言えていない事だ。

信治という人が、それだけは秘密にしてほしいと頼んだそうだ。

『自分の事にとらわれずに結婚してほしいから』と。

俺からしてみれば、好きな相手が死んでしまったと思っていた方が引きずってしまう気がするのだが。

まぁ、そのあたりは考え方の違いだろう。

今の俺はただ、茜とのこれからの生活がいいものになる事を考えるばかりだ。

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日曜定期更新(04/07/2019)「結婚主義国家 恋人死亡 初稿」※ネタバレ注意” に対して1件のコメントがあります。

  1. あんや より:

    ものすごく長くて、本編見たあとだとオチがわかるから読み疲れた。あと、茜に限らず家のお母さんや姉、教師みたいに女てなんで放っておけばいいときに放っておかないんだろうか付きまとわないでいいときまで付きまとうんだろうかどうして焼け石に水を注ぐんだろうか

    1. water phoenix より:

      あんやさん

      こんにちは。
      本当にボツの中でも特に長かったため、読むのが大変だったかと思います。
      実際に、そういう経験がおありなんですね。たしかに、そっとしておいてほしい時もありますよね。
      本編に加えてこちらもご覧いただき、ありがとうございました!

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